「昭和Nostalgia」(334)

「広報ひだ」の『飛騨びと 言の葉綴り』がこちらのP20kotonohaのコピー

残念ながら広報ひだの本誌は、紙面のスペースに限りがあり、掲載文は抜粋版となっております。文字数制限のないweb版も飛騨びと言の葉綴り~河合町・岡崎賢一郎さん – 飛騨市公式ウェブサイト併せてご覧いただければなによりです。

甚だ勝手な㊗飛騨市制20周年記念song「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」をyoutubeにアップしました~っ!記念ムードで盛り上がる、飛騨市の雰囲気を歌い上げま~す!


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

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まだまだ寒い日が続いておりますが、そこかしこに春の予感が感じられるようにもなって来た気がします。

日に日に桜の枝もうっすらとピンクがかって来たように見えますし、生きとし生けるもの全てが、間もなく訪れる春の準備を始めているようです。

春が近づくと思い出されることがあります。

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それはぼくがまだ小学1年の頃だったかに、お父ちゃんとお母ちゃんとぼくの三人で、近くの川の堤防でヨモギを摘み、お父ちゃんが「昔取った杵柄やぁ」と言いながら作ってくれた、春の香り満載の「ヨモギ餅」。

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三重県松阪市の西の外れで生まれ育ったお父ちゃんは、尋常高等小学校を出ると、菓子職人を目指し京都の御菓子司へ住み込みで修業に入ったそうです。

そこで見よう見真似で覚えたのが、ヨモギ餅だったのかも知れません。

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しかし菓子職人としての修業も、赤紙一枚で召し上げられ、お父ちゃんは菓子職人の夢も捥ぎ取られ、中国戦線の最前線へと送られてしまったようです。

戦後復員してからは、菓子職人とはかけ離れた鉄工所で、溶接工として働きぼくを育ててくれました。

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もしその時代も平和で、お父ちゃんが菓子職人となっていたら、もっとたくさんの菓子を作ってくれたんじゃないのかなぁと、幼心にもそう思ったものでした。

生涯お父ちゃんが、ぼくとお母ちゃんに作ってくれたお菓子は、そのヨモギ餅ただ一つきり。

お父ちゃんが「昔取った杵柄やぁ」と嘯きながら作ってくれた、唯一無二のヨモギ餅の味、いまでも仄かに覚えています。

でも待てよ!

もしお父ちゃんに赤紙が舞い込まず、京都で菓子職人となっていたら、ぼくはこの世に産まれい出ることもなかったのかぁ!


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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「昭和Nostalgia」(334)」への4件のフィードバック

  1. いやぁ、初めて伺ったお話しでした。自伝で詳しく書いて下さい!(未だ早いか!)

  2. うちは よく お母さんがお饅頭を作ってくれてました。
    勿論 あんこも手作りで。
    生地であんこを包む段階になると 私達も呼ばれて手伝う事に…。お母さんの手元を見て真似しながら包むけど なかなか上手には出来なかったですね〜。お母さんは 濡れた布巾の上の生地をリズム良く丸め 生地が合わさった箇所がわからないぐらい きれいなお饅頭に仕上げてました。そして 蒸し器で蒸すと台所中に ほんわか優しい香りが漂って…。
    今みたいにレシピを検索出来る時代でもなく 全てが目分量。 もう何もかもが あっぱれ!って感じです。
    もう一度 食べてみたいなぁ〜。

    1. お母様の想い出の香りと味なんて、最高のご馳走に決まってますよねぇ。
      もう食べられないから、余計に愛おしい味の記憶なんでしょうねぇ。

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