飛騨市の「広報ひだ」6月号「飛騨びと 言の葉綴り」が掲載されました。
「広報ひだ」の『飛騨びと 言の葉綴り』がこちらの25710.pdf (city.hida.gifu.jp)
残念ながら広報ひだの本誌は、紙面のスペースに限りがあり、掲載文は抜粋版となっております。文字数制限のないweb版も勝田萌さん(古川町) – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)併せてご覧いただければなによりです。
新たなシリーズ「昭和Nostalgia」が始まりました。懐かしくって恋しい「昭和」の懐かしい商品や、当時の事象など、勝手気ままに記憶をたどりながら綴ってまいります。
まずはぼくの新曲、「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」、ぜひ今日もお聴きください!
甚だ勝手な㊗飛騨市制20周年記念song「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」をyoutubeにアップしました~っ!記念ムードで盛り上がる、飛騨市の雰囲気を歌い上げま~す!
今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!
写真は参考
わが家の箪笥の上に、こんな富山の薬箱が置いてありました。
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そして月に一度くらいの割合で、富山の薬売りのオッチャンがやって来てたものです。
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そして薬箱の中の薬がどれだけ減っているかを確認し、わが家がその月に使用した分だけの薬代をお母ちゃんが支払い、不足した薬を再び追加して、オッチャンが薬箱に仕舞ってくれたものでした。
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薬売りのオッチャンは、お母ちゃんから代金を受け取ると、紙風船とか子どもが喜ぶおまけをくれたものでした。
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中でもぼくが一番うれしかったのは、昆布飴だったと記憶しております。
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でももしかしたらぼくの記憶違いで、薬売りのオッチャンから昆布飴はもらえなかったのかも?
もう今となっては、思い出す術もありません。
結構、子どもの頃は昆布飴が好きだったはずなんですが、もうかれこれ
60年近く食べていないような気がします。
今度見かけたら、一度買ってみよう~っと!
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投稿者: okadaminoru
1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。
岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。
<著書>
「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」
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富山の薬売りのお話は知ってるし、
システムも理解してますが。
学校系がこのシステムを取っていたかと記憶。
我が家は、
看護師だった母親の判断で、
なにやら厳選された専門薬が揃っていたような。
とは言え、
オイラは正露丸にヨードチンキ。
いつからバンドエイド位しか使わなかったかね。
風邪程度なら家で注射まで打たれたから・・・
病院へって考えはあの時代あまりなかったよね???
そうですかぁ!
お母様が白衣の天使さんとは!
それにしてもいくら何事にも緩かった昭和と言えど、まさか家で注射を打っていただけるなんて!
初耳でしたぁ!
とても懐かしいです。
おまけの紙風船を貰えるのが楽しみでした。私の中では正座して聞いていたつもりでしたけど いつも甘えていましたけど お客様のみえる時には 叱られない事を
良いことに 母に甘えてくっついていたようにも思います。
確かに子どもながらに、他所の人がいる時は、絶対に無暗に怒られないって、そう身に着けていましたねぇ!
でもついつい調子に乗って、あんまりな事をすると、他所の人が帰った後に、たっぷりとお灸を据えられたものでした。