白鳥駅界隈「先祖の商標『元文』を背負った男」
町中を南北に貫く旧越前街道。

越前・富山・美濃・尾張を結ぶ要衝として、宿場には人馬が行き交い、宿や酒場が軒を連ね大層な賑わいぶりであった。
その面影を最も残しているのが、元文5年(1740)創業の「布屋」原酒造場だ。

3000坪の敷地には、創業当時のままの仕込蔵も残り、まるでこの町全体を見守る、鎮守の社のような佇まいだ。
大店の玄関に掲げられた一枚板の檜看板には、右から「元文」の商品名と、国粋日本清酒蔵元の浮き彫り文字。

如何にも「手前どもは、由緒正しき蔵元でござい」と言った、威圧的なお仕着せがましさもなく、先祖の歴史に胡坐をかくような姑息さは微塵も感じられない。
店構えからは、ただただご先祖様から連綿と受け継がれた家業を、直向きに守り抜こうとする謙虚な姿勢が感じられる。
何ともその潔さが実に良い。
ご当主の人となりが透けて見えるようだ。
磨き込まれた引き戸を開けると、踏み締められた土間が静謐として広がり、その遥か奥に漆喰塗りの蔵が幾重にも連なる。
「私の下の名は、元文やなく、元文と読みます」。
仕込蔵で出迎えてくれたのは、十二代目当主の原元文さん(51歳)だ。

「私が生まれた時、父も母も名前を思い付かず、『それやったら取りあえず、家の酒の名前でも借りとこう』と、そのまま名付けてしまったようです。だから私が生まれた昭和34年から46年まで、布屋の酒から『元文』が消えてしまいまして、その間は代用の名称で『大日泉』と呼んどったんです。でも『元文』が『大日泉』に名を代えただけですから、味は『元文』のまま一緒やったそうです」。
ところがそうとは知らぬ客は、しばらく面食らったに違いない。
「でも結局、両親の思いとは裏腹で、学校行ってもこの辺の子どもらは酒の『元文』を知ってますから、元文何てだれも呼ばんと『元文、元文』って呼ばれてました」。
元文さんは懐かしげに笑った。
ご先祖は布屋から酒屋に商売替えでもされたのかと、どうにも気になっていたことを問うた。
「家の由来を語ると長くなりますが」と前置きし、元文さんが茶を一啜り。
―そもそも初代は、聖徳太子の側近として仕えた、渡来人の秦河勝に遡る。

河勝の孫、秦河建が天智天皇時代に藤原姓を賜り、朝廷に仕えた。
その後平安京遷都で大和の伊東村より京の大原へ移り、氏を伊東、姓を藤原とし、伊東左衛門尉藤原勝繁に。
勝繁は平治の乱に、源義朝から味方につくよう乞われるものの、平家方との交流も強く申し入れを断った。
同時に子の勝正は雅楽・舞楽を学び、小松右中将平維盛と親交が深く、後に義経の反感を買うところとなる。

やがて平家一門は滅亡し都落ち。
元暦元年(1184)、勝正は隠密裏に維盛を匿い、大和路への逃亡を手引き。
しかし京都守護職の義経が知るところとなり、「亡父義朝が味方へ招かれし時も、勝繁は承知せざりと伝え聞く。此度勝正が維盛を匿いし事、重々憎く許し難し。早速鎌倉へ申達し首を刎ねん」と、逆鱗に触れた。
勝正は文治元年(1185)、先祖由来の薬師如来を背負い京を脱出し、近江国八幡の神職で雅楽の弟子であったト部常陸の館に身を寄せた。
文治2年2月、僧の姿に身を窶し惣市(総合市場)に出掛け、辺りの様子を探索。
すると20歳ほどの美しい娘が通りかかり、「この白布を求め給れ」と。
勝正はこれまで自ら物を買った事などなく、対価の見当も付かず、金子二百疋を手渡した。
館でその話を聞いたト部は、「山奥には天下に知られぬ人里があり、惣市に時折り白布を持って来る者があると言われる。それを手にすれば一生災難を逃れ、幸福を得ると噂される誠に目出度き品。人々は求めたくともついぞ出逢えぬとか。これを手にされたからには、御身の運も開けるでしょう」と告げたとされる。
翌月、近江を後に郡上へ。
しかし薬師如来のお告げにより、更に西方の油坂峠を越え、未開の地を安住の地とした。
そしてその地を、惣市で手にした目出度き白布に因み、市布(現、福井県大野市東市布)と名付け、姓も京大原の原と藤原の原から「原」へ。

白鳥の地において酒造を始めたのは、元文5年。
当時の当主、原左近衛門正繁は、目出度き白布に因み屋号を布屋と命名―(参考文献/福井大学所蔵「氏神由来書」より)
以来、この地で270年、連綿と銘酒造りが続けられている。
「ですから、義経に追われた藤原勝正から数え、私で39代目となります」。
825年前までも、ご先祖を遡ることが出来るとは、平民の家系育ちにとってまさに神話のような話でもある。
一方、元文さんは東京農大に学び家業へ。
「恩師が自然界の花から、酵母を分離する方法を確立されまして、家でも平成17年からその天然花酵母で仕込んだ清酒を造らせてもらってます。さあ大吟醸のなでしこの、絞りたてです。まあ何はともあれ一杯どうぞ」。

なでしこの花酵母仕込みと、前宣伝が効いているからではなく、気品溢れる馨しい香りが馥郁と広がり、深い味わいが口中に醸し出される。
「女性に非常に人気があるんです」。

花言葉は「純粋な愛」。
この大吟醸なでしこに酔えば、図らずも夢見の宴で、可憐に咲き乱れる花々に囲まれることであろう。
一方、270年連綿と受け継がれる主力の元文はといえば、まろやかな花酵母仕込とは異なり、コクがあって濃厚で味わい深い酒として、左党を唸らせ続けた名代の銘酒だ。

「ところが酒の味は、その時代時代を反映しながら、微妙に変え続けているんです。例えば景気の良し悪し。景気が悪い時は甘口。酒が甘口ですと、あまり量を飲まなくて済みますから、懐も痛めません。一方、景気が良くなると、キリリとしたさわやかな辛口で、どんだけでもとことん飲めるようにと」。
世相は酒の味をも左右するのだ。
「ちょっと酒粕分けてくりょ」。

店先で老婆の声がした。
「元文さんの酒粕で瓜をつけると、何とも言えんいい香りがして、コクがあって美味しく漬かるんやさ。お酒が美味いで、酒粕も上等やし」。
酒粕は、毎年7月から12月まで1㌔400円で店先に並ぶ。(2011.9.13時点)
「板粕をタンクに入れておくと、2月から3月くらいになると、酵素が生きてますからドロッとしてきて。だから酒粕も消費期限はありません。いつまでも酵素が生きていて腐りませんから」。
知る人ぞ知る元文の酒粕は、毎年売り切れ御免の商品だ。
「毎年楽しみにして、買いに来られる地元の人らがおられますから」。
武を持って世を制した徳川ですら265年。
一方、かの藤原一門から落ち延び、御仏の加護と白布の導きにより、この地で造り酒屋を営む布屋は、刃で民を押さえ込んだ武士どもの時代をも凌駕した。
元文さんは、決して伝統に驕ることなく、今日も先祖が遺した蔵で、美味しく育てと酒に語りかける。
それもこれも左党の「旨い!」と言う、たった一言のために。
布屋 原酒造場/郡上市白鳥町白鳥
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酒粕は腐らないのですか。知らなかったです。粕汁作って残った酒粕は、味噌汁に加えて使ってました。しばらくは寒さが続くので、粕汁作ってみます。
冷蔵保存されていれば酒粕は随分長期保存できそうです。
腐らないってことは、酒粕の中の菌が生きているのでしょうかねぇ。
ぼくは豚のロースを漬け込んで、ポークソテーにしたことがありました。
白鳥の方たちは、酒粕をストーブの上にアルミホイルを敷いて、そこで酒粕を焼いて醤油を垂らして熱燗の肴とされるそうですよ。
元文さんのお酒を
リスナーさん仲間の方にお土産に買って行ったら
美味しいと好評でした。
また、呑みたいとの事だったので
場所を教えてドライブがてら元文さんまで足を運んだそうです。
私にはお酒の美味しさが分からん世界です~ぅ⤴
今日は節分・・
一刻も早くコロナの鬼を退治して貰いたいもんです。
ドライブがてらお気に入りの酒蔵を巡るなんて、左党にとっちゃ至福の時間ですよねぇ。
でも車の運転があると、試飲が出来ないのがちょっとねーっ。
ぼくはやっぱり、長良川鉄道でグビグビ試飲できる態勢で出掛けちゃうでしょうねーっ。
原さんち家の酒粕は 一味違うんですよね~ (◍•ᴗ•◍)❤
きゅうりを漬けたり お味噌汁に混ぜたり お酒のあてに そのままでも ♪♪♪
(うふふふ! これは わたしだけ?)
さむ~い今の季節には 粕汁もイイナ~
冷凍しても固まらないから 使いやすいですよっ ( ◜‿◝ )♡
お酒 私は『月下美人』 『さくら』 ファンです。
板状の酒粕は ちょっと焦げ目がつくくらい焼いて 甘醤油を付けて・・・
あ~ たべたーい!!! 探してみよ~
昨日は 節分でしたね ෆ╹ .̮ ╹ෆ
以前 オカダさんが玉姓院さんで 豆まきされた時の写真がスマホに ♪♪♪
今年は 3年ぶりに『つり込み祭』が行われたそうですね ♡(灬º‿º灬)♡
ぼくも原文の「さくら」スキですねーっ。
やっぱりキンキンに冷やしてキュ~ッと。
玉姓院の節分会、懐かしいですねーっ。