「素描漫遊譚」
「常滑界隈」
今回の「素描漫遊譚」は、今月17日(2005.2.27時点)に開港した、愛知県常滑沖の空港島、中部国際空港「セントレア」と、焼き物の町として栄えた常滑の町が舞台です。
今から丁度10年前。
ぼくは取材でニュージーランドへと、名古屋国際空港を発った。
既にニュージーランドへは、絶滅に瀕する飛べない鳥・カカポの取材で何度となく出かけていた。
そんなこともあり、ニュージーランド航空には、本国にも日本にも知り合いが多くいた。
その日のフライトでは、一旦フィジーでトランジットし、再びオークランドへ。

フィジーを飛び立ちしばらくすると、キャビンクルーがぼくに小声で囁いた。
「オークランド空港への着陸を、コックピットでご覧になりませんかと、機長がお尋ねですが」と。
「ええっ!ほっ、本当に?」。
明らかにぼくは動揺してしまった。
それほど衝撃的だったのだ。
だって、男の子なら誰しも一度くらいは、きっとパイロットに憧れたはずだ。
でも勉強嫌いのぼくが、パイロットになれる訳も無く、その夢はいつしか潰えてしまった。
でも、その夢が、いやその夢の欠片が、今手に入れられそうなのだ。
ぼくは片言の英語で、コックピットのクルーに挨拶と礼を述べ、キャプテンの後部シートに陣取った。

心臓がバクバクと音を立てる。
キャプテンの肩越しに、アオテアロアの島影が悠然と現れた。

機体を緩やかに旋回させながら、徐々に高度を下げてゆく。
前方にオークランドの小さな町並みが、ゆっくりと近付いて来る。
機長はアナウンスで、最終着陸態勢に入ったことを告げた。
低い雲を抜けると、もうそこにオークランド空港の滑走路が、真っ直ぐに伸びていた。

幼い日。
田んぼのぬかるみに足をとられ、泥だらけになって泣いていたぼく。
自力ではどうすることも出来ず、ただその場で泣き続けるしか術が無かった。
夕暮れ。
母の呼ぶ声が聞こえる。
ぼくは必死に母を呼んだ。
母は畦道を乗り越え、大きく両手を広げぼくの元へ。

そして、泥だらけのぼくをやさしく受け止めた。
そんな記憶が不意に過り、機体の後部車輪が滑走路のアスファルトに抱かれた。

空港。
それはまるで、あの日の母のようだ。
大空を何千キロも飛び続け、疲れきった機体という身体を、母なる大地がやさしくそっと受け止める。
常滑沖に新たに誕生した、世界を受け止めるセントレア。
そして焼き物の町として栄えた、その名残を今に留める常滑の町並み。

一足お先にのんびりと、漫ろ歩いてまいりましょう。
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古き良き昭和時代・・
子供達に、将来何になりたい、と、聞くと
大体の子供は「パイロット」と答えた ❢
私は、一度も、そんな事、思った事がない!
まして、飛行機なんて乗る事なんてないと思っていたし
貧乏長屋に住む小市民には無縁の乗り物だと思っていたが
社会人になると、慰安旅行などで乗る事が出来た。
昔に比べれば手頃に飛行機に乗れるようになったのかも知れませんねぇ ❢
若い頃って妙なものに憧れるものです。
ぼくなんてギターケースに、取扱注意のフラジャイルタグや、エアラインのタグをぶら下げたかったものです。
あたかも飛行機で、あっちこっちと飛び回ってでもいるかのように。
でもいつの間にか、味もそっけもないバーコードのタグになっちゃって!
あれだけ集めた昔の味のあったタグは、いったいどこへやってしまったのやら・・・。
お話を伺っただけで 心臓がバクバクします。凄い経験をされたのですね。
そりゃあもう、感動でした。
マップ片手に、常滑の『やきもの散歩道』をウォーキングした事があります。あのお団子屋さんも登場するかしら⤴️
土管坂って素敵ですよねぇ。
でも夏場は、藪蚊の巣窟ですから、ポケムヒが必需品ですよぉー!