「魔法の火鉢」

年の瀬が近付くたび、心の何処かで昭和半ばのわが家にあった、あの懐かしい魔法の火鉢を手に入れたいと願ってしまう。
だが戸建てならともかく、マンション住まいではそうもいかない。
幾度となく古びた商店で火鉢を目にし、思わず衝動買いしそうになったものだ。
ところでわが家の火鉢は、いったいいつ頃まで、現役を務めたのであろう?
恐らく、戸建てで隙間だらけだった市営住宅から、マンションに引越すまでではなかったろうか?
ともかく今更、鬼籍に入った両親に問うわけにもいかぬ。
「ただいま~っ!」。
昭和半ばの小学生の頃、何よりの楽しみは土曜の半ドンだった。
当時は肝心要の、半ドンの意味すら知らずに、下校のチャイムが鳴ると同時に、一目散に家路を急いだもの。
あれから半世紀近くの時を経て、改めて「半ドン」の意味を調べて見た。
それによると、半ドンのドンは、オランダ語で休日を意味する「ドンタク」からの転用とか。
そんなことはともかく、半ドンの土曜日は、何やら得をした気分になったものだ。
とは言え、急いでわが家に帰っても、何か特別なことが待ち受けるはずもない。
いつも玄関を開けると味噌汁の匂いがした。
茶の間の火鉢に土鍋が掛けられ、朝餉の味噌汁の残りに冷ご飯をぶっこみ、溶き卵を加えたオジヤが待ち構えていただけ。

それでも白黒テレビを見ながら、母と一緒にハフハフと頬張る熱々のオジヤが、半ドンの何よりのご馳走だった。
おまけに母の機嫌が良いと、向こうが透けて見えるほど薄っぺらなハムの、肉屋で1枚5円で買って来た、揚げ立てのハムカツが添えられた。

そんな特別な日に出くわそうものなら、たちまち心は今にも天へと昇るほど興奮したものだ。
あの頃の火鉢は、八面六臂の大活躍。
暖を取りつつ煮炊きも出来、時には火鉢の上に洗濯物を吊るし、俄か乾燥機へと早変わり。

餅を焼いたり、ぜんざいから煮豆に、鮒味噌までと、練炭が消え入るまで大活躍。
それに真冬の朝は、母が火鉢で下着を温めてくれ、ぬくぬくに袖を通せた遠き日。
火鉢を囲み家族で顔を突き合わせ、暖を取った貧しかったあの頃が、もしかすると一番幸せだったのかも知れない。
しかし悲しいかな人生は、幸せの一瞬で立ち止まってはくれない。
火鉢の焼き網でこんがり焦げ色の付いた焼餅も、それは一瞬の美味しそうな色合いに過ぎぬ。

ついうっかり目を離せば、真っ黒く墨のように焼け焦げてしまうのだからして、人の世の幸せとてその程度のもの。
しかもそれに気付くのは、幸せだった瞬間から、随分と時を隔ててからとなる。
幸せとは、なんと脆く儚く、尊いものやら。
火鉢の底で消え入ろうとする、練炭の埋み火を見るたび、哀しく思えた遠き日。
幼いながらも、そんな人生の物悲しさや儚さを、今にも消え入らんとする埋み火に、漠とした侘しさを感じ取っていたのやも知れない。
願わくはせめて今一度、両親と共にあの火鉢を囲んでみたいものだ。
さぞや、ぬくといに違いない。
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ハムかつ
大好き!
しかも、肉厚のハムじゃぁなくて、薄いハムがイイ⤴
ウースターソースをかけて・・
間違いなく美味しいねぇ❢
3枚ほど買って来て、翌朝パンにはさんで・・たまらん❢
因みに、鶉タマゴの串揚げにしたのも大好き!
哀しくなるほど落ち武者殿の嗜好とぼくもピッタリ同じです。
鶉卵の串のフライも、周りが赤くって向こうが透けるほど薄いハムのカツも!
なんてったってぼくは、中身の具よりも衣好きですもん。
子どもの頃はお母ちゃんが、天婦羅を上げた後に残った水溶き饂飩粉だけを揚げてくれて、巨大な天かすがぼくのご馳走だった程ですもの。
ハムカツ、最近はコンビニのサンドイッチでしか見かけないですね~!
火鉢も懐かしいですね。
祖母の家にあったのも ちょうどブログのいちばん初めに写っている色合いでした。
祖母の家に馴染んでいて 従姉妹とみんなで囲んで食べる焼き餅も美味しかったです。
昔のお餅は分厚くて大きかった事まで思い出しています。
なんだかほっこりする光景ですよねぇ。
もう何十年って、火鉢に手をかざした記憶が無いですねぇ。
火鉢の後輩にあたる石油コンロも、我が家ではすっかり使わなくなりました。でも災害時には登場するかも。
石油コンロもありましたねぇ。
煮炊きしたり洗濯物の家干しに欠かせなかったものでした。
ぬくとい… 良いひびきですね〜( ◠‿◠ )
あったかくて心地いいって感じ。
火鉢の焼き網での焼き加減と人の幸せとの比喩的表現みたいな感じ…
心にスーっと入った気がします。
今まさに 立ち止まってくれない人生(とき)に入り込んだからかも知れません。
幸せだった瞬間…
いつかこの先 気付く事が出来れば…。
幸せって一枚の印象的な写真のような静止画となった、刹那的な瞬間を指しているんじゃないでしょうか?
決して長編の動画のようなものではなく。
だから殊更尊いものなんじゃないのかなぁ。