
しわがれた母の涙は、岩清水よりも清らかに澄みきっていた。
不意に目の前で中島ひささん(92)は涙ぐんだ。
語り終えた遠い日の不幸な出来事から、干支も早や一巡りもしたというのに。
老婆は今でも、あの日のままの母であり続ける。
長良川分水嶺から国道156号線に沿って南へ、六洞橋から脇道へと反れ、湯の平温泉を抜ける。
まだ川幅も狭い長良川に、ひっそりと寄り添うような中洞地区の小さな集落が現れた。
鷲見城跡からほどない『宮ケ瀬橋』。

橋の中ほどに立ち長良の流れを見つめていると、上流で行き会った宿屋の主人の言葉がよみがった。
「戦後の開拓団が入った時代、この辺りは『三白』産業だけやったんやて。一つは牛乳の白、二つ目は鷲見大根の白、三つ目が雪の白。それで何とか食うてくしか他に何にも無かったんやで」。

長良の流れは両岸に生きる人々の、嘆きや溜め息を呑み込み、片時も休むことなく今なお流れ続ける。
ひささんは大正5年に西洞で生まれ、入り婿を得て男子二人を生した。
だが日華事変に突入した昭和12年。

「幼児を残したまんま、主人に死なれてもうたんやわ。それからと言うもの、どんどん戦時色が深まって。何とかほそぼそと百姓して、再婚せんで子どもら育て上げようと必死やった」。
しかし戦局は日増しに悪化。
「あと三ヶ月で米が穫れるのに、それまでが待てんで稗なり買って子どもらに食べさせて。やっと戦争が終わったと思ったら、今度は大飢饉やわ」。

そこへ再婚話が持ち上がった。
「『あの人と一緒になったら、米をたぁんと持ってござるぞ』って、周りのもんらに勧められて。米欲しさで、相手の顔を見ることもなく一緒になったんやて」。
終戦直後の混乱期、ひささんは命を紡ぐ『米』と引き換えに、再婚へと踏み切った。
当座の餓えへの心配は無くなったものの、高度経済成長に沸く都市部とは異なり、山間の村の暮らしはけっして楽なものではなかった。
そんな中、先夫との間の男子二人が中学を出て社会へ。
間も無く後夫との間に男子二人と一女が誕生した。
倹しい暮らしと引き換えに得た、家族水入らずの平安なひと時。
ひささんはこの掛替えの無い時間が、いつまでも続くことを心の底から願った。
戦後の復興振りを世界中に知らしめ、昭和39年に東京五輪は閉幕した。

その年、中学3年生の長男が難病を発症。
すると間も無く中学2年生の次男が、川遊びで頭部を強打する事故に。
「夫と二人して稼いで、やっとの思いで大学病院で手術受けさせたんやて」。

次男は二ヶ月後に退院。
しかしそれも束の間、今度は長男と同じ難病に取り憑かれる破目に。
ひささんは土木作業に従事しながら、各地の名医を訪ね歩いた。
「何度この子ら連れて死のうかと思ったことか。不憫でならんかってね。でも末の娘も気掛かりやし、とうとう死に切れんだ。だからそれからは『笑える日がいつかきっと来る』って、何度も呪文のように繰り返して、心の中に棲む悪魔の声を振り払ったもんやって」。
ひささんの声が詰まった。
深く刻み込まれた顔の皺を、澄んだ涙が横へと伝う。
翌年ひささんは、二人の息子を相次いで亡くした。
「どうせ治らん病気なら、好きな物を好きなだけ食べさせてやりたかった」。
あれから43年の歳月が過ぎたと言うに、未だ母は母。
どんなに齢を重ねても、心はあの日で止まったままだ。
「主人を亡くした20年ほど前から、近所で詩吟を始めたんやて。おかげで友達も出来たし。なんやら難しい漢詩を意味もわからんと、腹にたばって(しまって)ある声張り上げて吟ずるんやわ」。
まるで二人の息子の菩提を弔うかのように、ひささんは小さな身体で一節を吟じた。
「身体は生きとる子どもらに。心は死んだ二人の息子のもの」。
激動の昭和という時代に翻弄されながらも、気高く生き抜いた小さな母。
高鷲の町を白く覆った雪も、やがて雪解け水となり長良を下って行くことだろう。

なんぴとにも桜咲く春は、違えることなく必ず平等に訪れる。

春よ来い。

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ブログ内の「名医を訪ね歩いた…」の次の文章が…。
何度脳裏をよぎったことだろう。
『 身体は生きとる子どもたちに。心は死んだ二人の息子のもの。』
ダイレクトに突き刺さった気がします。
将来 私の心だけが残った時 二人の息子達は どう受け止めるのか?理解するのが難しいのに… などと考えた事があります。
その時の為にも 彼らの周りにあったかい人垣を作り いつもあったかい春に包まれるよう 母はもう少し頑張ろうと思う( ◠‿◠ )
お母さんはいつまでたったって、子どもたちにとっては誰よりも大切なお母さんですものねぇ。
ちゃんとちゃんと息子さんたちには伝わっていますって!
なかなかこっぱずかしくって、素直に感謝できないだけで!
母の愛は海よりも深く・・無償の愛
なんて、らしくない事を言っています。
でもさぁ~
他人同士でも「絆」と言う言葉がある!
私は「絆」を大切に過ごして行きたいと思う。
私!どうしたんやろぅ⤴
こんな事を言う「キャラ」やなかったのに!
いやいやそれも間違いなく加齢に伴う「悟り」とちゃいますか?
昔、せがれが高鷲で教員の仕事を始めました。その時、3白産業のいわれを聞き、粛然とした気持ちになりました。高地にある為か紫外線も強い感じがし、また冬はとても寒かった記憶があります。新潟への単身赴任の行き帰りに通るときも、決して楽な環境ではないことを知っていました。オカダさんのお話で、当時の思いが蘇ってきました。
今ほど交通網が張り巡らされていなかった昭和40年代半ばくらいまでは、もう一つ大変だったと思います。
女は強いとか、母は強しとか言いますが、どんな事があっても前を向いて行(生)かなければならないですからね。私も強い女?に なった?かもね。
でも強いくらいじゃなきゃ、家庭の要としては機能しませんものねぇ。
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