長良川母情③(2008.3月新聞掲載)

しわがれた母の涙は、岩清水よりも清らかに澄みきっていた。

不意に目の前で中島ひささん(92)は涙ぐんだ。

語り終えた遠い日の不幸な出来事から、干支も早や一巡りもしたというのに。

老婆は今でも、あの日のままの母であり続ける。

長良川分水嶺から国道156号線に沿って南へ、六洞橋から脇道へと反れ、湯の平温泉を抜ける。

まだ川幅も狭い長良川に、ひっそりと寄り添うような中洞地区の小さな集落が現れた。

鷲見城跡からほどない『宮ケ瀬橋』。

写真は参考

橋の中ほどに立ち長良の流れを見つめていると、上流で行き会った宿屋の主人の言葉がよみがった。

「戦後の開拓団が入った時代、この辺りは『(さん)(ぱく)』産業だけやったんやて。一つは牛乳の白、二つ目は鷲見大根の白、三つ目が雪の白。それで何とか食うてくしか他に何にも無かったんやで」。

写真は参考

長良の流れは両岸に生きる人々の、嘆きや溜め息を呑み込み、片時も休むことなく今なお流れ続ける。

ひささんは大正5年に西洞で生まれ、入り婿を得て男子二人を生した。

だが日華事変に突入した昭和12年。

参考資料

幼児(おさなご)を残したまんま、主人に死なれてもうたんやわ。それからと言うもの、どんどん戦時色が深まって。何とかほそぼそと百姓して、再婚せんで子どもら育て上げようと必死やった」。

しかし戦局は日増しに悪化。

「あと三ヶ月で米が穫れるのに、それまでが待てんで(ひえ)なり買って子どもらに食べさせて。やっと戦争が終わったと思ったら、今度は大飢饉やわ」。

写真は参考

そこへ再婚話が持ち上がった。

「『あの人と一緒になったら、米をたぁんと持ってござるぞ』って、周りのもんらに勧められて。米欲しさで、相手の顔を見ることもなく一緒になったんやて」。

終戦直後の混乱期、ひささんは命を紡ぐ『米』と引き換えに、再婚へと踏み切った。

当座の餓えへの心配は無くなったものの、高度経済成長に沸く都市部とは異なり、山間(やまあい)の村の暮らしはけっして楽なものではなかった。

そんな中、先夫との間の男子二人が中学を出て社会へ。

間も無く後夫との間に男子二人と一女が誕生した。

倹しい暮らしと引き換えに得た、家族水入らずの平安なひと時。

ひささんはこの掛替えの無い時間が、いつまでも続くことを心の底から願った。

戦後の復興振りを世界中に知らしめ、昭和39年に東京五輪は閉幕した。

参考資料

その年、中学3年生の長男が難病を発症。

すると間も無く中学2年生の次男が、川遊びで頭部を強打する事故に。

「夫と二人して稼いで、やっとの思いで大学病院で手術受けさせたんやて」。

写真は参考

次男は二ヶ月後に退院。

しかしそれも束の間、今度は長男と同じ難病に取り憑かれる破目に。

ひささんは土木作業に従事しながら、各地の名医を訪ね歩いた。

「何度この子ら連れて死のうかと思ったことか。不憫でならんかってね。でも末の娘も気掛かりやし、とうとう死に切れんだ。だからそれからは『笑える日がいつかきっと来る』って、何度も呪文のように繰り返して、心の中に棲む悪魔の声を振り払ったもんやって」。

ひささんの声が詰まった。

深く刻み込まれた顔の皺を、澄んだ涙が横へと伝う。

翌年ひささんは、二人の息子を相次いで亡くした。

「どうせ治らん病気なら、好きな物を好きなだけ食べさせてやりたかった」。

あれから43年の歳月が過ぎたと言うに、未だ母は母。

どんなに齢を重ねても、心はあの日で止まったままだ。

「主人を亡くした20年ほど前から、近所で詩吟を始めたんやて。おかげで友達も出来たし。なんやら難しい漢詩を意味もわからんと、腹にたばって(しまって)ある声張り上げて吟ずるんやわ」。

まるで二人の息子の菩提を弔うかのように、ひささんは小さな身体で一節を吟じた。

「身体は生きとる子どもらに。心は死んだ二人の息子のもの」。

激動の昭和という時代に翻弄されながらも、気高く生き抜いた小さな母。

高鷲の町を白く覆った雪も、やがて雪解け水となり長良を下って行くことだろう。

写真は参考

なんぴとにも桜咲く春は、違えることなく必ず平等に訪れる。

写真は参考

春よ来い。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「長良川母情③(2008.3月新聞掲載)」への11件のフィードバック

  1. ブログ内の「名医を訪ね歩いた…」の次の文章が…。
    何度脳裏をよぎったことだろう。
    『 身体は生きとる子どもたちに。心は死んだ二人の息子のもの。』
    ダイレクトに突き刺さった気がします。
    将来 私の心だけが残った時 二人の息子達は どう受け止めるのか?理解するのが難しいのに… などと考えた事があります。
    その時の為にも 彼らの周りにあったかい人垣を作り いつもあったかい春に包まれるよう 母はもう少し頑張ろうと思う( ◠‿◠ )

    1. お母さんはいつまでたったって、子どもたちにとっては誰よりも大切なお母さんですものねぇ。
      ちゃんとちゃんと息子さんたちには伝わっていますって!
      なかなかこっぱずかしくって、素直に感謝できないだけで!

  2. 母の愛は海よりも深く・・無償の愛
    なんて、らしくない事を言っています。
    でもさぁ~
    他人同士でも「絆」と言う言葉がある!
    私は「絆」を大切に過ごして行きたいと思う。
    私!どうしたんやろぅ⤴
    こんな事を言う「キャラ」やなかったのに!

  3. 昔、せがれが高鷲で教員の仕事を始めました。その時、3白産業のいわれを聞き、粛然とした気持ちになりました。高地にある為か紫外線も強い感じがし、また冬はとても寒かった記憶があります。新潟への単身赴任の行き帰りに通るときも、決して楽な環境ではないことを知っていました。オカダさんのお話で、当時の思いが蘇ってきました。

    1. 今ほど交通網が張り巡らされていなかった昭和40年代半ばくらいまでは、もう一つ大変だったと思います。

  4. 女は強いとか、母は強しとか言いますが、どんな事があっても前を向いて行(生)かなければならないですからね。私も強い女?に なった?かもね。 

    1. でも強いくらいじゃなきゃ、家庭の要としては機能しませんものねぇ。

  5. Woah! I’m really loving the template/theme of this site. It’s simple, yet effective.
    A lot of times it’s tough to get that “perfect balance” between user friendliness and
    appearance. I must say you’ve done a excellent job with this.
    Also, the blog loads very fast for me on Opera.
    Outstanding Blog!

夢ちゃん へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です