昭和がらくた文庫105話~最終話(2019.08.22新聞掲載)~「白球を手榴弾に持ち替えたエース」

今を遡る85年前、昭和9年。

二度目の来日を果たした、全米オールスターチーム。

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その中には、あの大リーガー、ベーブ・ルースもいた。

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静岡県草薙球場で迎えた第10戦。

全米軍を相手に6回まで、大リーガーを切り切り舞いさせ、ベーブ・ルースの1安打だけに、抑える活躍を見せた17歳の若者がいた。

それが三重県伊勢市出身、京都商業(現/京都学園高)中退の沢村栄治だ。

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左足を大きく跳ね上げ、豪快なフォームから繰り出す、160㌔を超えたと言われた剛速球と、三段に落ちるカーブが武器。

その年の暮れ、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)」に入団。

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だが対戦相手となるプロ球団が国内に誕生しておらず、翌年米国に遠征。

128日間で109試合をこなし75勝。

剛速球と三段落ちのカーブを武器に、沢村は敵地で三振の山を築いた。

そんな沢村の活躍に目を付けたのが、大リーグのピッツバーグ・パイレーツのスカウトだった。

サインを求めるファンを装い、入団契約書を差し出したのだ。

寸でのところで同行者が気付き、難を逃れたとか。

もしその時、沢村が知らぬままサインをしていたとしたら…。

昭和10年に日本人初の大リーガーが、誕生していたろうか?

昭和12年、日華事変が勃発。

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日本は抜き差しならぬ、戦争の泥沼へと歩を進めて行った。

沢村は2年間のプロ野球シーズンを終え、バットを銃に持ち替え、昭和13年1月中国戦線へと出征。

戦地では肩の強さを買われ、最前線でボールを手榴弾に持ち替え、敵陣へと豪速弾を放り続けた。

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昭和15年に復員し、プロ野球に復帰。

手榴弾の投げ過ぎが祟り、球速は衰えていた。

にも拘わらず、球史に燦然と輝く三度目のノーヒットノーランを記録。

再び昭和17年、二度目の招集でパラオへと出征。

翌年復員しマウンドに登ったものの、球威はおろかコントロールも奪われていた。

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そして昭和19年12月2日、三度目の出征でフィリピンに向かう途中。

沢村を乗せた輸送船は、台湾沖で米艦隊の魚雷により撃沈。

沢村は二度とこの世に戻れぬ、最後のデッドボールを食らい非業の死を遂げた。

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「沢村さん。お辛かったでしょうね。あなたの類稀な右肩は、人々を歓喜させるものであり、決して人を哀しみの淵に追いやるものではなかったはず」。

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ところが無謀な国策の果てに、何度となく観衆の見守るマウンドと、血塗られた戦地を行き来した。

観衆の夢を乗せる白球さえ、いわれなき人々の命を奪う手榴弾に持ち替えさせられる羽目となった。

それが戦争の惨たらしさそのものである。

明日からは、別のシリーズをお届けいたします。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、シンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「昭和がらくた文庫105話~最終話(2019.08.22新聞掲載)~「白球を手榴弾に持ち替えたエース」」への6件のフィードバック

  1. 野球と言えば・・
    大リーグの大谷翔平選手の二刀流
    同じ日本人として誇らしく思います。
    ホント!凄い選手です。
    27歳の独身で性格も良くて、2枚目だから
    日本女性もさることながらアメリカ女性もほっとかないでしょうねぇ!
    金髪美女かぁ!
    ええな~ぁ~⤴

    1. 何よりも大谷君は、野球できる喜びを体中で表現しながらプレーしていますものねぇ。
      もう愛されキャラ炸裂ですよ!

  2. 全米軍を相手に活躍し 日本初のプロ野球チームに入団した… 沢村さん。
    日本の上層部にあたる人達は 沢村さんをどう見てたんだろう…と ふっと思ってしまいました。
    何度も戦地に行く事になるなんて。
    酷すぎる!の一言では済まないし どう表現したらいいのかもわからない。
    戦争は 無くす(失くす)ばかりで 何も生まれないのだ。

    1. 仰る通りです!
      戦争は敵も味方も、最前線で命を的に晒すのは、ただただ戦争さえなければ、普通につつましく生きていた一般人ばかりだったんでしょうねぇ。
      戦争に駆り立てた、時の政治家や軍人たちは、自分は敵の銃弾の届かぬ場所で、そうした無力な庶民を戦地に送り込んだのでしょうね。

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