「天職一芸~あの日のPoem 233」

今日の「天職人」は、岐阜県各務原市の「チャルメララーメン職人」。(平成十九年五月二十二日毎日新聞掲載)

北風運ぶチャルメラが 炬燵のごろ寝酔い覚まし     慌てて羽織る丹前に 欠けた丼「おい親父」       釜から上がる湯煙が 凍て付く夜を遠ざける       鳴門チャーシュー海苔メンマ 醤油の香り縮れ麺

岐阜県各務原市のチャルメララーメン職人、ダイマンラーメンの上野一吏(かずさと)さんを訪ねた。

写真は参考

静かな住宅街に響くチャルメラ。

それに釣られる犬の遠吠え。

建て付けの悪い引き戸が軋む。

下駄履きで「お~い、親父!」「へい、毎度」。

丼鉢が擦れ合う。

「あっ『今日はこの家、何杯だな』って真っ暗な夜でもわかるんだわ。お客の顔はわからんでも、丼の顔が見えちゃうんだから」。

一吏さんは昭和十六(1941)年、旧満州で食堂を営む家の長男として誕生。

しかし戦局は日々悪化。

昭和十九(1944)年、一家は逃げるように母の在所の鹿児島へと引き揚げた。

「父の食堂を軍の上層部が利用しとったから、戦局の状況を早く入手出来したんだろうな。だから命拾いやて」。

昭和二十二(1947)年、父の在所の岐阜市へ。

「駅前の北側一帯は、ハルピン街と呼ばれる満州からの引揚者ばっかり」。

高校を出ると、父と共に家業の菓子製造へ。

しかし問屋相手の薄利な商売に見切りを付け、昭和三十九(1964)年に廃業。

「知人にこれからは自動車だって勧められて」。

一吏さんは自動車部品販売に転職。

それから三年、今度は東京へ。

「ビールや清酒会社で製造ラインの組み立てと、その保守管理の仕事やわ」。

二年後、秋田県出身の範子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

しかし三十一歳の年に腎臓病を患い、岐阜に舞い戻り六年に及ぶ闘病生活が始まった。

「退院してからもしばらくは放心状態でねぇ」。

一日五時間程度の事務職で家計を支えた。

昭和五十六(1981)年四十歳で一念奮起し、親類の援助を得て食材の宅配を開始。

「その傍ら、何か手に職を付けようと、調理師免許を取ったんやて」。

そんなある日。

「夜鳴きラーメンが来て、作るのを見とったら『こんなもん俺にも出来そうだ』ってな調子で」。

チャルメラ販売元締めの門を叩いた。

チャーシューや具の仕込から、引き売り方法を学び三年後に独立。

真新しいラーメン車に自慢のチャーシューとラーメン百二十食を積み込み、犬山・小牧・江南・可児・各務原へ。

今でも曜日とコースを定め、一日七十㎞の引き売りを続ける。

朝十時頃から自慢のチャーシューを煮込み始め、夕方五時になると半被を羽織ってチャンコロ帽を被り出陣。

チャルメラが奏でる郷愁の音を響かせながら住宅街の辻々を巡る。

「ラーメンはチャーシューが命。その煮汁がラーメンスープの旨味を惹き立てるんだで。ある時肉屋が『チャーシュー売らせてくれんか』って言いに来たほどやて」。

写真は参考

客が丼片手に玄関を飛び出すと、まず麺を湯がきながら丼を湯煎。

程よく温まった丼にチャーシューの煮汁垂れとスープを入れ、そこに麺を湯切りし注ぎ込む。

仕上げにガランと呼ぶネギ・メンマ・蒲鉾・ゆで卵・チャーシューの具を彩りよく配す。

「こんでも楽しみに待っとる客もおるで、無断欠勤は出来んわ。食べ物の恨みは怖いで」。

法螺は吹くけどチャルメラは吹けんと嘯(うそぶ)きながら、チャルメラ職人はラーメン車を走らせた。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 233」」への9件のフィードバック

  1. 中学生か高校生くらいの時に、チャルメラを鳴らしながら、夜鳴きそば屋さんが来てました。近くの衣料品店の寮に住んでいるお兄さんが屋台を止めると、慌てて丼ぶりを持って買いに行きましたが、夜遅くのラーメンって、罪深し(¯―¯٥)
    でも、美味しかったなぁ⤴️

    1. そうそう!
      あの罪深い美味しさ!
      ぼくが丸田町のアパートで、れいのH.Iさんと一緒に二段ベッドで暮らしていた頃は、ぼくのアパートに曲がる空港線の南向き車線に毎晩屋台のラーメン屋さんが止まっていて、深夜の2時過ぎにナイトレストランでの歌伴の仕事を終えると、缶ビールと赤いウインナーのマヨネーズ添え、そしてラーメンを毎日未明に食べたものでしたぁ!

  2. チャルメラ♬
    これまた!懐かしい⤴
    小学生位の頃に、よく「パララァ~~ララ♪」
    8時9時頃になるとよく耳にしてましたが、
    勿論!昭和30年代ですから、リヤカーを引っ張って⤴
    深夜になると岐阜駅前の問屋街に屋台ラーメンが出ていたので
    20歳頃、車でツレ達と「今日のナンパ反省会」と要して
    「反省及び今後の対策ラーメン」を食べてました。
    まぁ~⤴
    若い頃と言うのはバカバカしい事が楽しかったりするんですねぇ!
    青春時代バンザイ!

    1. ぼくがまだ20歳前後の頃は、名鉄名古屋駅を出て今のミッドランドを正面に見る階段を昇った、バスの降車場前の歩道に、何軒も中華そばの屋台が並んでいましたよ!
      ぼくも何度もお世話になったものでしたぁ!

  3. 今晩は。
    ・チャルメララーメン職人のお話ですね。
    ・チャルメララーメン美味しそうですね。
    ・私は、屋台で、ラーメン(おでん等)を、食べた事が、有りません。
    私は、ラーメン,うどん,焼きそば等を、袋麺を、買いません。カップに入っているタイプを、買います。お湯を、入れたら出来るからです。
    ・市販のチャルメララーメン(袋麺)を、買った記憶が有りません。

  4. 懐かし〜い!
    そう言えば子供の頃 よく聞こえてきてました。いいなぁ〜食べてみたいなぁ〜と思いながらも トライ出来ず。
    でも 大人になってから ボーリング終わりに 駐車場にあった屋台でラーメンをペロリ。初めての屋台デビューで物凄く感動したのを覚えてます( ◠‿◠ )
    お店で食べるのも美味しいけど あの雰囲気がいいんでしょうね。
    今では ラーメン屋さんに行っても お持ち帰りですからね。

    1. 屋台のラーメン丼が出されると、割り箸を割りながら、さて何からいただこうかと、順番を考える束の間の時間がとても好きでした。
      スープを一口啜ってから、ネギを絡めて麺を一啜りして、そしておもむろにチャーシューを頬張り、今度はメンマを絡めた麺を一啜りといった塩梅に!

  5. 屋台のラーメン、ワシも好きです。京都市に住んでいたころ、京都中央郵便局前に巨大テントを張った屋台ラーメン屋がありました。夜な夜な現れる不思議な空間でした。出張の帰りやバス待ちの間に、よく利用しました。第一旭でいただくラーメンと同じ濃いしょうゆ味のラーメンでした。掛け値なく、ほんとに美味かったです。なんであんなに美味かったんやろ、と今思い出す次第です。上野さんが調製されたラーメンのスープの色やガランも似てますが、茹で卵はありまでんでした(茹で卵が苦手なのでよく覚えてます)。いま、屋台のラーメン屋さんあるのでしょうか。博多は遠すぎるし。

    1. 屋台で一杯なんて、何とも心まで解れる様な気がするものです。
      何よりも空腹で啜りこむ屋台のラーメンは、この世の物とは思えぬほど美味しいものでした。

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