「天職一芸~あの日のPoem 232」

今日の「天職人」は、名古屋市東区の「噺家」。(平成十九年五月十五日毎日新聞掲載)

観音様の帰り道 路地の奥から寄席囃子         木戸脇燈る提灯に 雷門の亭号(ていごう)が      高座に上がる噺家に 待ってましたの掛け声が      ここは下町情け町 泣いて笑えば日も暮れる

名古屋市東区の噺家、雷門小福(本名・中島捨男)さんを訪ねた。

「お呼びがかからな、噺家なんて開店休業。おタロ(金銭)も貰えへんし」。小福さんは、年季の入った笑顔を向けた。

小福さんは昭和九(1934)年、東区の下町に誕生。

大通り一本隔てた北側には、徳川園が広がる。

「あっちは上町のお坊ちゃま。あたしもあっちで生まれとったら、こんな仕事なんてしとらんかったわ」。

中学時代、防火宣伝の絵画コンクールで全国一に。

「それで演劇クラブの書き割り描かされて」。

しばらくすると役者に欠員が出て、裏方から役者へ転向。

「こっちの方が目立つでねぇ」。

中学を出ると看板屋勤めの傍ら、青年劇団に所属し芸の道へ。

「主役を取るのは大変だし、これでは飯も食えん」。

将来に悲観的だったそんなある日。

演劇部の恩師の招きで、桂文楽の一席に触れた。

「『これだ!』って思ったわ。だって自分で問いかけて自分で返事すりゃあええんだで」。

噺家への道を模索し、十八歳で初代三遊亭小円歌に入門。

「師匠の高座は歌謡ショーの前荷(まえに/前座)専門。緑のスーツ姿で立体落語と称しては十八番(おはこ)の『ボロタク』。所詮金持ちの手慰み芸だったで」。

そうとは知らず住み込み弟子で一年。

食事は縁側。リンゴ箱に新聞紙を貼った飯台で、冷や飯に梅干一つ。

「喫茶店へお供すると、師匠がコーヒー一杯頼んで。カップの下に少し残して『ほら、お飲みよ』って。あたしなんかそれを白湯で薄めた極薄のアメリカン」。

落語の稽古どころか内職仕事と掃除の毎日。

「もうこの師匠じゃあ駄目だって。師匠の弟弟子にあたった、『山のあなあなあな』の歌奴を頼りに上京したんだけど、結局追い返されちまって。今更帰るに帰れず埼玉県の大宮でパチンコ屋に住み込んでねぇ」。

それから一年後に名古屋へ。

昭和二十九(1954)年、二十歳の年に初代雷門福助に入門し小福を襲名。

「東京深川の列記とした雷門だけどね、うちの師匠は女と博打で失敗して、師匠の実家がある名古屋大須に都落ちしたわけよ。だから弟子入り当初は、あたしも師匠の家に住み込み。三年辛抱したら東京へいかしてやるって約束で、修業しながらただ働きのボイラー焚き」。

ひたすら東京の高座に上がる日を夢見た。

「ところが三年経ったと思ったら『おまえさんねぇ、礼奉公ってのがあるだろう』ってんで、また一年ただ働き」。

しかしその見返りか、お勝手女中をしていた妻花子さんとの縁組が薦められた。

地方巡演を続けながら二年後の昭和三十五(1960)年、二十六歳の若さで芸能プロを設立。

芸人の呼び屋を務める傍ら、出稽古を重ねて話芸を磨いた。

そして昭和五十一(1976)年、四十二歳で晴れの真打へ。

その後は地元大須演芸場で高座を張り続けた。

昭和六十三(1988)年、師匠福助が死去。

東京本家からは福助襲名話が持ち上がった。

「そりゃあ嬉しい話しだったけど。小福の名に愛着もあったし。生涯このまんまで通そって」。

平成七(1995)年には脳梗塞に倒れた。

「平衡感覚が衰えちゃってねぇ。そしたら次は肺気腫。あたしはどうにも昔っから欲深だからねぇ」。小福師匠は大声で笑い飛ばした。

降り注ぐすべての運命(さだめ)を遍(あまね)く受け入れ、笑いにすり替えた噺家人生。

「なごや雷門」の亭号は、噺家の矜持にかけ小福師弟の心意気が護り抜く。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 232」」への9件のフィードバック

  1. 落語好きですよ〜。
    今でも『笑点』見てますから(笑)
    短大生の頃 落研同好会に入ってるお友達がいたので よく見に行ってました。
    名古屋に本物の寄席を観に行った事も。
    笑いあり…時には切なさあり…
    終わったあとに心がま〜るくなるんですよ( ◠‿◠ )

  2. 落語を聞く機会は余りありませんでしたが、『笑点』は今も毎週見ていますよ。噺家さんの、頭の回転の良さに毎回感心しています(・ิω・ิ)

    1. あの独特の口調が、なんとも言えませんものねぇ。
      上方と江戸落語とありますが、ぼくはどっちかってぇと、下町言葉に江戸開府の三河便が残っている点からも、江戸落語の方が粋に感じられて好きですねぇ。

  3. こんにちは。
    噺家のお話ですね。
    ・落語好きです。落語,浪曲は、一人で何役もやりますね。
    ・私は、大須演芸場に行った事有ります。実際にお噺を、聞くと違いますね。
    雷門さんのお噺を、聞きました。
    ・上方落語と江戸落語が有りますね。両方それぞれ違いが、あって良いですね。両方好きですね。

  4. 「落語、漫才」生で見た事がありません!
    あたしが子供の頃
    「獅子てんや瀬戸わんや」「晴乃チックタック」
    好きだったなぁ~⤴面白かったなぁ~⤴
    「お笑い」今は第七世代とか言われていますが
    歳を取ったせいか?笑いのツボが違うのか?
    あまり、腹を抱えて笑う事がありません!
    笑いも時代と共に変わってくるんでしょうねぇ!
    笑う門には福来てる!ってねぇ!
    オカダさん笑顔を忘れてはいけませんよぉ!

    1. ぼくは、お母ちゃんが市場の抽選会のくじ引きで引き当てたのか、愛知県体育館の何かのショーで、「晴乃チックタック」を実演で見たことがありました。
      でも残念ながら、落ち武者殿のヘアスタイルにそっくりな、わんや師匠を拝見したことはありませんねぇ!
      まっでもいいっか!
      ぼくはいつでも落ち武者殿を拝めるから!

  5. 東京へ行くと必ず浅草の演芸場に行きます。ブッハァ〜しながら、お弁当食べたり、お菓子食べたりして楽しいです。
    やっぱり寄席は良いですね。
    先日、再開した大須演芸場へも行きたいと思っています。
    小福師匠にもお会いしたいです!

    1. 残念ながら、小福師匠はぼくが取材した五年後、既にこの世に暇乞いをされています。
      重ね重ね、残念なことです。

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