今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「男川やな女将」。(平成十八年八月二十九日毎日新聞掲載)
つくつく法師夏は逝き 梁場(やなば)の木々も色付けば 川面の落ち葉追うように ゆらゆらゆらと秋茜 聖なる川で身篭って 梁の川床落ち跳ねる 我が子だけでも護らんと 儚き定め鮎の母
愛知県岡崎市、男川(おとがわ)やなの女将、梅村成美さんを訪ねた。

「主人は、川の上(かみ)の方から流れて来ました」。旦那との馴れ初めを尋ねると、まるで落ち鮎のことのようにバッサリ。成美さんが笑った。
成美さんは、昭和二十二(1947)年、梅村家の一人娘として誕生。
短大を出ると、市内の小学校四校で教鞭を振るった。
昭和四十五(1970)年、冒頭の落ち鮎のように例えられた亘さんと結婚。
「同じ町の人だったから、何となく見知ってはいて。それよりも忙しくて、恋愛する暇なかったし」。見合いからわずか七ヶ月、岡崎城の竜城(たつき)神社で挙式。
「当時は洋風の結婚式場なんて無くって、白無垢に文金高島田。本当はウエディングドレスが着たかったんだけどねぇ」。挙式を終えると父は、成美さんだけを車に乗せ、実家へと連れ帰った。
「父は私を、新婚旅行に行かせたくなかったんだ」。成美さんはそう思った。
一人取り残された新郎も、周りの列席者も、呆気に取られるばかり。
ただ九州へと旅立つ、飛行機の搭乗時刻だけが刻々と迫っていた。
「家に着いたらビックリ。父がウエディングドレスに着替えろって。慌てて着替えて、庭で記念撮影して」。その後、大慌てで空港へ。何とか事なきを得、その後二人は、二女二男を授かった。
男川やなは、昭和五十一(1976)年、国・県・旧額田町が出資する、自然休養村整備事業の一環として、梅村家の土地に漁業権者十名が組合を発足し開業した。
それから十年。
もともと観光施設経営とは、畑違いの船頭ばかり。来場者の減少で翳りが。しかし公的資金の投入された施設。閉めたくも閉められない。
平成二(1990)年、成美さんの父で当時漁業組合長を務めていた百(ひゃく)さんが、脳梗塞に倒れた。
「『誰もやなを継ぐ者がおらんでも、他所者だけにはやらせん!』って、病床の父が知人に。それが教員を辞めてやなを継ぐきっかけかなあ」。成美さんは、川面を見つめた。
翌年、教職を辞し男川やなの女将に転身。

「でも大変だったわよ。何もかも別世界だから。今までどれだけ世間知らずだったか、思い知らされたもの。あの頃はよく、やなの上で一人泣いたものだわ」。
板場の調理人さえ雇うこともならず、見よう見真似で鮎に串を打った。
「最初のお客さんは、そりゃあ酷いもんよ。尻尾の跳ね上がった焼き上がりじゃなくって、ノッペーっと平ったい焼き上がりだもん」。
だが、それでもと通う客が、成美さんを支え続けた。

「はいっ!いらっしゃい!」。
引っ切り無しに訪れる家族連れ。客捌きの巧みさに、元教員の面影は無い。
「この川にどれだけ淋しさや哀しさを流して、代わりに上から嬉しさや喜びを運んでもらったことか」。
時折り店を訪れる教え子。誰もが必ずこう口にする。「私、わかる?」。
成美さんは、記憶の糸を手繰り寄せ、化粧の奥に面影を探す。
「タカちゃんやない?」。その一言は、時の隔たりを瞬時に埋め合わせる。
一年魚とされる鮎。
その身を切り刻むように遡上し、子を成し儚き生涯を終える。
まるで成美さんの人生そのもの。
教員と言う仮の姿をまとい、町という河口に下りて子を育て、また再び魂の故郷へと遡上した。
訪れるべくして訪れた定め。
遅い早いではない。
いつか本物の自分と、巡りあう瞬間さえ見逃さなければ。
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おはようございます。
・男川やな女将のお話ですね。
・写真の料理美味しそうですね。
・やなは、職業なのですね。
・私は、鮎料理を食べたか覚えていません。
男川やな… 行った事があります。
鮎のつかみ取りはしなかったけど 川面で涼んだり 鮎料理をいただいたり。
鮎料理 美味しかったなぁ〜。
新鮮だからお刺身も最高に美味しくて。
でも やっぱり焼き鮎が一番かな⁈( ◠‿◠ )
景色を見ながらのお食事だから格別でしたよ。
ps. ブログの最後の文章が心にとまりました。今まさに見つけようとしてるところなので…
そうなんですよねぇ。
色んな事が山積みだけど、それがあってこその、自分だけのオリジナルな人生だって思うしかないんですもの。