今日の「天職人」は、名古屋市西区の「飴細工職人」。
田舎歌舞伎の触れ太鼓 幼子連れて楽屋を見舞う お父さんよと教えても 足がすくんで泣き出す娘 時代がかった髷頭 白い襦袢に隈取顔じゃ 誰が見たって大悪党 こんな父親知らぬと叫ぶ
名古屋市西区の歌舞伎飴本舗、初代の神谷佐恵子さんを訪ねた。

「ちょっと寸は足らなんだけど、これがまた中々の洒落もんやったって」。佐恵子さんは、夫であった春吉の遺影を見つめた。
愛知県知多市出身の初代春吉は、大須門前町の飴屋で奉公。昭和23(1948)年に同郷の佐恵子さんを妻に迎え、独立して店を構えた。
「まあ畳も入っとらんし、満足な屋根もない家やったわ。そんでも飴を作る端から、行商さんが裏から持っていきよった」。戦後の混乱が続く統制時代。人々は甘いものに生きる希望を託した。
翌年には長男の二代目、近藤博司さんが誕生。「今と違って、夜なんて他にやることもあれへんし、直ぐにこの子が出来ちゃった」。佐恵子さんが屈託なく笑う。すると隣で博司さんが釘を刺した。「またいらんこと、口に出す」。しかしそれもどうやら糠に釘。「そんでもあんたが産まれた言うたら、知多の実家まで満面の笑み浮かべて飛んで来たって!あんな嬉しそうな顔、見たことないわ」。
二年後、春吉の独創的な歌舞伎飴が、世に送り出された。人気の高い助六、暫(しばらく)などの隈取を、金太郎飴の要領で見事な細工を施した逸品。砂糖と水飴を火にかけ、冷ましながら食紅で着色し、隈取に必要な部品に仕分ける。それを海苔巻きの要領で、切り口が隈取を表すように組み立て、直径1.5㎝程の細さに引き伸ばし、1㎝程の幅に切り落とす。全てが手作業。しかし全国各地の歌舞伎小屋で飛ぶような売れ行きとなった。

博司さんは慶応大学へと進学。しかし家業の都合で中退を余儀なくされ、東京の菓子問屋に就職。「せっかく名古屋へ戻って来ても、家をつん抜けてまって嫁の家へ上がり込んどったらしい」。博司さんが思わず咳払いを一つ。六年間の交際を続け、妻久恵さんとの愛を育んだ。ところが久恵さんは近藤家の大事な跡取り娘。博司さんは婿入りを決意したものの、頑固一徹な父を前に心が揺らいだ。「この人、そんで胃に穴が開いてまったんだて」。母が大声で笑った。博司さんは悩みぬいた末、弟で工場長を務める和雄さんに打ち明け打開策を思案。結局、婿入りしても家業は継ぐという条件で、頑固親父を説き伏せたそうだ。

「今や海外の安い大量生産品に押されて・・・」。博司さんは、先代が歌舞伎飴に添えたという、隈取の意匠を表した栞を眺めた。

「敗戦後の子供たちを、甘いもんが勇気付けたように、いつの日かイラクへ行けたら、現地の子供らに飴を食べさせてやりたいわ」。佐恵子さんが風のようにつぶやいた(平成十六年四月三日時点)。
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おはようございます。
飴細工職人のお話ですね。
ブログを、見て 飴細工の工程等がお勉強になりました。
・歌舞伎飴(歌舞伎の隈取りの飴)実際の商品は、綺麗な商品なのでしょうね。
・私は、飴細工は、TVで見た事有ります。 綺麗ですね。食べるのが勿体なかったです。
実際に飴細工の工場見学を、した事が、有りません。
・金太郎飴も可愛いですね。切っても同じ絵が出てくるから不思議ですね。
御園座など舞台を観る際は生煎餅を買ったものですが、とても格調あってもはや芸術品ですね。非日常で頂きたい一品です。
そうですね。
何処を切っても・・・って言う飴ですよね。切っている様子をテレビで見た事が有ります。勿論、職人技でしょうが、あまりにもリズミカルに同じサイズに切って行く姿に「やってみた〜い‼」と思いました。
簡単なようで難しいと思います。
だって完全に硬くなってからでは、割れてしまいますから、その頃合いを見極めるのが、職人の勘と経験かも。
色鮮やかでカラフルでデザインも豊富…
お願いしたデザインで作ってくれるお店もあるんですよね⁈
小瓶に入った飴は可愛いから つい見入っちゃう時があるけど 私はいつも飴1個で満足しちゃう人なので もったいなくて買わずじまい。
でも 目の前で飴作りを見ちゃったら 絶対に買っちゃうでしょうね(笑)
子供の頃なんて、飴の細工物を眺めているだけでも、十分に幸せを感じたものでした!