今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、「宮大工棟梁」。
童相撲に勝鬨挙がる 宮の境内秋祭り 慣れぬ廻しを引き絞り あの娘横目にもう一番 入母屋(いりもや)修理の宮大工 結びの一番待った無し 手に汗握り気も漫ろ 鑿の槌音触れ太鼓
岐阜県高山市の宮大工棟梁、袈裟丸(けさまる)時男さんを訪ねた。
「入母屋造りの美しさは、破風(はふ)の反りが命。縄垂れの弛み具合で棟梁の腕が試されるんやさ」。袈裟丸さんが物静かに語った。


大工与三吉(よそきち)の次男として誕生した袈裟丸さんは、十歳にして鑿を片手に大工仕事を手伝ったと言う。
昭和12(1937)年、尋常高等小学校を上がると、「世が安泰でないと、大工じゃ喰えん」と、父は吐き捨てるように呟いた。日華事変勃発で、激動の昭和が不気味な軋み音を発しながら動き始めていた。
袈裟丸さんは鉄道省の試験を受け、高山機関区の庫内手に。蒸気機関車の罐(かま)掃除の日々が続いた。やがて機関助手を経て、高山本線の機関士に。
昭和20(1945)年8月1日夜。貨物を牽き富山に到着。仮眠後再び夜行で高山へと戻るはずだった。「神通川の向こうから、B29が大編隊でズンズン近付いて来るんやさ」。同僚と共に近くの池に飛び込んだ。「もう地獄絵そのものやった。瓦が真っ赤に焼け、ドロドロになって飛び散って来るんや」。辺り一面は焦土と化した。
終戦の翌年暮れ、妻を娶り翌年国鉄を辞し、復興に沸く父の下で大工を始めた。あくる年には長男が誕生。飛騨に遅い春が訪れ、仕事に目鼻が付き始めた矢先のこと。昭和23(1948)年、産後の肥立ちの思わしくなかった妻が、乳飲み子を遺し急逝。その年、高山別院が焼失した。
それから四年後、今度は長男が母の後を追うように、わずか五歳で先立った。相次ぎ家族を失った袈裟丸さんは、哀しさを紛らわそうと仕事に打ち込んだ。ちょうどその年、高山別院の再建が始まり、大棟梁の下、宮大工の一人として加わった。木取りに始まり、二年後上棟式を済ませたものの、再び放火により焼失。二十五人の宮大工たちが皆項垂れた。
平成5(1993)年、袈裟丸さんが棟梁を務め、埼玉県越谷市の能舞台を木曽檜だけで造り上げた。「木曽の檜はおとなしいんやさ」。袈裟丸さんは、狂いの少ない木曽檜に人格を与えた。「白木はやがて黒く、そしてまた風化して白く生まれ変わるんやさ」。


百年で約3ミリ。木曽檜の表面は風雨に晒され、やがて毛羽立ち白く見えると言う。宮大工に魂を注ぎ込まれた木曽檜は、過行く時間の中で、風化と言う進化を遂げる。


人は神を崇め、一柱(ひとはしら)と数える。「神々御座(おわ)す宮処(みやこ)かな、家々守る床柱」ミノル
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おはようございます。
・宮大工棟梁さんのお話ですね。
・岐阜県高山市と書いていたので近く(身近な所)に、あるのかなと思いました。
・袈裟丸さん家族が、亡くなったりして大変でしたね。
・袈裟丸(けさまる)さんは、高山別院の再建に関わっていたのですね。私は、知らなかったです。ブログを、読んで分かりました。
・袈裟丸さんが、木曽杉に人格を与えたのですね。すごいですね。
・(写真)越谷の能舞台綺麗ですね。
・(写真)入母屋造り綺麗ですね。屋根の反りが綺麗に出来ないと駄目なのですね。
激動の人生ですよね。
命ある木曽の檜に耳を傾けながら手を掛け 新たに生まれ変わらせ そして その舞台で人が呼吸する事で再び進化していく…
凄い!の一言では言い表せないぐらいのお仕事ですね。
この方の側には いつもあらゆる神々がおられるのかも知れませんよ( ◠‿◠ )
職人さんの多くは、寡黙な方が多いものです。
逆に饒舌すぎる職人さんは、足元が見えてしまうせいか、がっかりして取材を打ち切り、そのまま取材ノートを閉じて帰ったことが何度もありました。
どんな職人さんでも、本物の職人さんは、自分の相方である材料や素材と、丸一日向き合っているのですもの。
この場合は、木曽檜ですけどねぇ。
ヒノキと言えば、檜風呂
いいなぁ~⤴源泉垂れ流し?違う!源泉掛け流しでした。
温泉でも行ってのんびりしたいなぁ~
でもなぁ~憎き新型コロナウイルス!
観光地、温泉宿等キャンセルで倒産する宿もあるとか?
マスクも何処の薬局屋さんにも無い!
ネットで調べたら「ぼったくり値段」
何処か?変な世の中になって行きそうで
変なのは、私だけではなかった・・・
コロナウイルスは、何だか人間共へのメッセージなんでしょうかねぇ。
でも、ウイルスの姿が肉眼では見えないから、ついつい疑心暗鬼に陥ってしまいますものね。