「昭和Nostalgia」(430)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

「昭和生まれだい~っ!」と、憚ることなく仰れる方なら、きっとこんなゲーム機をご存知のことでしょう!

ぼくは正式にこのサッカーゲームで遊んだことはありませんが、選手にボールをキックさせるバーを、背伸びしながら回した記憶があります。

写真は参考

しかもそれはまだ、小学校も低学年の頃。

なんでそーなったのかは、すっかり思い出せませんが、父と同郷の父の後輩にあたる「おーい中村君」に、当時金山にあったナゴヤスポーツガーデンへ連れて行ってもらった時だったはず。

写真は参考

なんでその人が、「おーい中村君」って名前なのか、それはお父ちゃんが当時流行った歌謡曲を真似、その後輩の事をよくそう呼んでいたからです。

写真は参考

だからきっとその方は、「中村なにがし」さんであり、わが家に遊びに来ていて、物の弾みからかぼくをマイカーに乗せ、夜のナゴヤスポーツガーデンへと連れ出したんだと思います。

なぜそれが夜であったか覚えているかと言うと、中村君自慢の車のメーターが、淡く光っていたからです。

それはそうと、スポーツガーデンでは、お兄さんお姉さん方が嬉々としてボーリングに興じられており、賑わっていたものです。

そしてその傍らにあったゲームコーナーに立ち寄った時、ぼくはこんなサッカーゲーム機を初めて目にし、ついでに背伸びしてバーを回したんじゃないかと思います。

写真は参考

その後の事はもう何一つ思い出せそうにありませんし、それ以降もわが家に「おーい中村君」がやって来たものかも、定かじゃありません。

時としてそうなんですが、遠い記憶も夜中に見た夢も、所々しか鮮明ではなく、それらの前後のストーリーが全く持って不鮮明過ぎて、記憶が一本化されず、ついつい夢か現の狭間の出来事のように感じてしまうばかりです。

でもお父ちゃんはあれ以来、そんなに♪おーい中村君♪の鼻歌を歌ってなかったようにも思えますが・・・果たして真相や如何に?

って、まぁそんなどーでもいいような記憶の真相なんぞ、今さら追い求めて見たって、何かがどうにかなるものでも無し!

得てして人の記憶とは、そのようなものなんですよねぇ~っ!


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(429)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

滅多に来客も無かったわが家でしたが、こんな干菓子と言うか落雁を詰め合わせた折り詰めの手土産を、子どもの頃に頂戴したことがありました。

と言っても、幼いぼくが戴いたものなどではなく、お父ちゃんかお母ちゃんの客人が携えられた品に違いありません。

しかし、果たしてどなたがお持ちになられたのか、どのような理由でこのように高価な品がわが家にもたらされたものなのか?

もう記憶を手繰り寄せる術もありません。

その客人が帰ってから折り詰めを開けてビックリ!

写真は参考

とても色鮮やかな、干菓子やら落雁が、きれいに並べられているじゃありませんか!

なんせそれまで干菓子や落雁と言っても、駄菓子に毛の生えた程度の紛い物しか、目にも口にもした試しがありませんでしたから、両親共々おっかなびっくりで手を伸ばしたことを覚えています。

本格的な干菓子や落雁に違いないのでしょうが、子どものぼくにはどうにもこうにも、甘みもにっすく(名古屋弁で「弱い」の意)どっちつかずではっきりせず、見た目の興奮とは裏腹にガッカリしたものです。

まぁ、本格的なお抹茶でも立ててくれたらまだしも、出涸らしの番茶じゃあ、せっかくの銘菓も台無しだったものです。

「落雁」の由来とやらは、唐の菓子「南落甘(なんらくかん)」が転じたとされるようで、いつしか「南」が略され、「落甘」となったとか。

琵琶湖の浮御堂に舞い降りる、雁の情景を描いた千菓子が、そもそも「落雁」の始まりともいわれているようです。

参考

近江八景の一つ堅田落雁。

黒胡麻を雁の行列に見立て、水面に舞い降りる雁の群れを擬したとも。

写真は参考

高山市の下二之町にある「分隣堂」さんには、こんな塩落雁があります!

写真は参考

いつの日か機会があれば、静謐とした茶室の躙り口を潜り、和三盆の落雁をいただきつつ、お点前のご相伴をさせていただきたいものです。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(429)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

この梅雨が明けると、各地で花火大会やら、夏祭りが行われることでしょう。

昭和半ばの頃は、お洒落なキッチンカーじゃなくって、夜店の露店が軒を連ねたものでした。

写真は参考

そんな数ある露店の中でも一際目を引いたのが、このリンゴ飴でした。

とは言え子どもの頃は、そうそうおいそれと買ってもらえぬ代物でした。

当時としてもリンゴ飴は、やっぱり他のたこ焼きやお好み焼きなんぞに比べたら、一文も二文も高かったんでしょうかねぇ?

当時リンゴ飴1個がいくらしたのか、それさえまったくもって闇の中です。

随分大人になってから初めて、子どもの頃の念願でもあった、露店のリンゴ飴を口にしたものです。

写真は参考

でも・・・。

やっぱり色鮮やかなリンゴ飴は、子どもにとって魅力的な味覚であって、決してビール片手に口にするものじゃないって思い知ったものです。

写真は参考

子どもから大人への階段を登ってしまうと、あれほどキラキラと輝きを放っていたリンゴ飴より、醤油ダレが塗られた茶色黒いイカ焼きの方に、ついつい手が伸びてしまうものなんだと思い知った事がありました。

写真は参考

梅雨が明けたら、どこぞの夏祭りでも、キリン晴れ風を片手に、漫ろ歩いてみようかなぁ?


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(428)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

土曜の半ドンの日は、終業のチャイムが鳴ると同時に、ランドセルを背負い一目散に家路へと、駆け出したものです。

「お昼ご飯に、どうかハムカツが添えられていますように!」と、そう念じながら!

「ただいま~っ」と玄関の引き戸を開け、茶の間へ飛び込めばやっぱり!

写真は参考

内職仕事のお母ちゃんの傍らに置かれた、ストーブの上に掛けられたアルマイト製の鍋がグツグツと煮え立ち、部屋中を味噌の香りが覆い尽くしていたものです。

特に冬場の土曜の午後は、まずもって九分九厘間違いなく、朝の残りの味噌汁に、これまた残り物の冷ご飯を入れて煮込み、最後に溶き卵を流し入れただけの、味噌おじやと相場は決まっていた気がします。

それはもう既にいつもの事として、ぼくの中でも織り込み済みのことでしたから、さて置くとして、問題は卓袱台の上にぼくの大好物だったハムカツが、デーンと添えられているかどうかが最大のポイントであったのです。

写真は参考

まぁ、今にして思えば、土曜の半ドンの昼ご飯に、ハムカツが添えられていたのは、おそらく月に1度程度の割合だったのかも知れません。

向こうが透けて見えそうなほど薄っぺらなハムに、これでもかってぇほど肉厚な衣を纏ったハムカツ!

そんな大半を衣が占めたようなハムカツこそが、当時のぼくにとっては最大のご馳走でもあったものです。

今となっては肉屋の揚げ物コーナーでも、そんな衣が大半を占める薄っぺらなハムカツなど、もう見かけられはしません。

そう思うとどうにもこうにも、あの衣ばっかりのハムカツが食べたくなってしまうのも人情。

ならばと自分で試してみても、そんなに分厚い衣など纏わせられません!

子どもの頃の肉屋さんは、どうやってあんなに分厚い衣を薄っぺらなハムに纏わせられたのやら?

貧しかった昭和の半ば、少しでも薄っぺらなハムを分厚く見せようと、苦心惨憺な策だったとは言え、その巧みな技に今更ながら舌を巻くばかりでした。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(427)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

こんな風に、影絵遊びをなさいませんでしたか?

昭和半ばの子ども時代には、雷や台風などでよく停電したものでした。

写真は参考

部屋中が真っ暗になると、お母ちゃんがロウソクの火を灯し、その薄明かりを頼りに家族三人、卓袱台を囲み夕餉を取ったりもしたものです。

ぼくは雷や台風の風の音は苦手でしたが、ロウソクの灯りが燈されている時が、結構好きであった気がいたします。

食事を終え、スイカなんぞを皆で頬張っていると、TVも停電で見られませんから、お父ちゃんが両手を使って器用に、動物などの影絵を障子に映し出してくれたものです。

参考

ぼくもお父ちゃんに教えてもらって真似ては見るものの、お父ちゃんの影絵とは似ても似つかず!

「これはな~んや!」と、クイズ擬きに影絵を映し出し、得意満面の顔で問いかけてくれた、若き日のお父ちゃんの笑顔が浮かんでは消えてゆきます。

今に比べたら、それこそなぁ~んにもありませんでしたが、家族三人分の心の安らぎが満ちていたように思えてなりません。

参考

そう言えば影絵は、こんな歌川広重の作品にも登場していたようです。

そう思うと庶民は、随分古くから光と影の世界を、そうやって愉しむ術を得ていたんですねぇ!


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(426)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

こんなぼくでも、子どもの頃はご多聞に漏れず、滅法甘いモノにゃあ目がありませんでした。

春になれば、牡丹餅・桜餅・柏餅に粽と、季節を愛でる饅頭の数々に、それはそれは憧れを抱いたものです。

とは言え、そうそう滅多やたらとお母ちゃんが買ってくれるなんて有り得ません。

お父ちゃんの会社の記念日とかでお父ちゃんが引き出物として持ち帰るか、たまぁ~にやって来る来客が手土産として持ってきてくれるとか、或いは逆に来客の接遇用にとお母ちゃんが買って来たお茶請けの饅頭であったりと言ったくらいしか、季節の饅頭のお零れになどそうそう与かれなどしなかったものです。

牡丹餅も桜餅もさることながら、ぼくが一番食べたくって仕方なかったのは、鴬餅でした。

写真は参考

黄緑色の鴬やメジロそっくりな饅頭は、喉から手が出るほど食べたくって食べたくって!

どうかどうか、来客のオジサンやオバサンが、鴬餅に手を付けませんようにって、どれだけ希ったことやら!

そんな艱難辛苦を経てやっとこさぼくの口に入った鴬餅と言ったら!

そりゃあもう、極楽極楽! 

そう言えば和菓子屋さんの店先には、この季節らしい紫陽花饅頭なるものもあるようですねぇ。

写真は参考

ぼくも梅雨入りしたラ、一度食べてみたいと思っています。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(425)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

昭和の時代は、あちらこちらで紫煙が燻っていたものでした。

夜の町のスナックやバーは元より、バスや電車、それに病院の診察室に待合室でも!

胸元のポケットから煙草をおもむろに一本取り出し、マッチやこんなオイルライターなんぞで、火を付けていたものです。

写真は参考

オイルライターの中でも特に人気が高かったのは、Zippoじゃなかったでしょうかねぇ。

写真は参考

それとかロンソンなんてぇのもございましたですねぇ。

それはそうと昭和の時代には、こんなものまで!

写真は参考

誰かのアメリカ土産で、貰ったこともあったような、なかったような?

それに!

写真は参考

こんなアンティックなマイク型の卓上オイルライターも!

ましてや!

写真は参考

こんなNHKの出演者や被取材者等への謝礼品と思われる、刻印入りのオイルライターまで!

ぼくはNHKと刻印された懐中時計をいただいたことがありました。いつの時だったのやら?

写真は参考

なかにゃあこんなギャンブラーの喜びそうなものやら、

写真は参考

なんとなんと!こんな手榴弾型の物騒なオイルライターまで!

煙草においそれと火が付けられそうにありませんから、禁煙を目指す方にゃあ持って来いかも知れませんですねぇ。

写真は参考

それはそうと、オイルライターは、あの独特なオイルの香りが、周りに漂ったものでしたですねぇ。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(424)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

子どもの頃、近所の遊び仲間の中に、こんな知恵の輪の得意な子がいたものです。

それも2~3回、輪っかを回している内に、絡み合った輪っかが見事に外れちゃうんですから、まるで目の前でマジックを見せられているかのような、不思議な光景でした。

写真は参考

ぼくの近所の遊び仲間の中にいた、知恵の輪の達人は、草野球や缶蹴りにポコペンも、まったく風采が上がらぬのに、唯一知恵の輪だけはピカイチ!

他の近所の友の中には、家で知恵の輪をおねだりして、買ってもらったのは良いものの、一つとして輪っかが外れなくって、知恵の輪の達人である友に、輪っか外しを頼むものまで現れたほど。

写真は参考

しかし知恵の輪の達人は、輪っか外しの手解きまでは出来ず、ただただ黙々と輪っかをクリクリ回すだけ。

だからせっかく一旦は輪っかを外してもらったものの、再び輪っかと輪っかを組み合わせると、もうお手上げ!

そうやって何度も何度も、知恵の輪の達人にまた外してもらうばかり。

確かぼくも、一文菓子屋の片隅にあった、初心者向けの小さな知恵の輪を買っては貰ったものの、何かにつけ面倒臭がりでズボラなぼくにゃあ、とっても太刀打ち出来ず、そのままオモチャ箱の奥底に眠らせてしまったはずです。

他に取柄は無くとも、何とも器用に知恵の輪を操っていた、知恵の輪の達人はあれからどうなったのやら?

もしかしたら名だたる学者か技術者にでも、なったんでしょうかねぇ?

皆様方は、知恵の輪がお得意でしたか?


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(423)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

小学校の低学年の頃、図工の粘土細工の時間が、好きで仕方ありませんでした。

写真は参考

確か机の上に画板のようなモノを広げ、プラスチックケースに入った、グレー色の油粘土を広げ、あんなものやこんなものの造形に取り組んだものです。

とは言う物の、造形に取り組むどころか、そもそもそんな才能など皆無なぼくにゃあ無理!

写真は参考

何か動物を真似て模って見ては、ちっとも煮ても似つかぬ駄作ばかりで、直ぐに作品を押しつぶしては、また別のモノを作ったり・・・。

まぁ所詮ぼくの粘土細工は、造形作品などとは恐れ多くて決してそうは呼べぬもので、図工の時間の間中、粘土遊びに高じていただけのモノだった気がします。

写真は参考

何度やっても粘土細工は上手くいかないものの、わが家の老犬ジョンが、ぼくの粘土細工に最も頻繁に登場した、トップモデルだったものです。

粘土細工はとっても楽しかったものの、その後も掌に油粘土の油の匂いが沁みつき、その日一日その匂いに付き纏われたものでした。

写真は参考

そう言えば近所の子らと地べたにしゃがみ込んじゃあ、こんな泥団子作りもせっせせっせとして遊びましたですねぇ。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(422)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

子供の頃の、蒸し芋の続編です!

大の芋栗南京嫌いなぼくではありましたが、お母ちゃんが時折り作ってくれた、こんな鬼饅頭は別格で、ぼくも大好きなお母ちゃんお手製のオヤツでした。

特に蒸し上がったばかりの鬼饅頭は、ホッカホカで寒い日なんかにゃあ、とんでもないほどのご馳走でもあったものです。

写真は参考

だから冬の日、学校から帰って玄関の引き戸を開け、「ただいま~っ!」と大きな声で叫びながら、鼻から息を吸い込んで、「今日はもしかしたら、鬼饅頭かな?」ってな調子で、家の中の匂いを嗅ぎ分けたりした覚えがあります。

でも内職仕事に追われるお母ちゃんにとっちゃ、鬼饅頭は蒸し芋より遥かに手間がかかり、ぼくが喜ぶからって、そうそうせんど作っちゃもらえませんでしたですねぇ。

そう言えば鬼饅頭もさることながら、年に1度や2度くらいの割合で、こんなロバパンのような蒸しパンが登場したこともありました。

でも蒸しパンの中身は、それこそ鬼饅頭のようなサツマイモばかりだったような?

それでも子どもの頃のぼくにして見たら、それこそ盆と正月がいっぺんにやって来たような喜びようでもありました。

もうどんなに願おうとも、二度と味わう事の出来ぬ、お母ちゃんの鬼饅頭。

形は店屋に並ぶモノとは違い、歪極まりないものではありましたが、ぼくにとっては掛け替えのないほど尊い、昭和半ばを代表するお母ちゃんの手作りオヤツの、王様だったに違いありません。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。