「昭和Nostalgia」(459)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

中学に入って、ギターを少し独学で弾き始めようとしていた頃だったでしょうかねぇ?

「明星」とか「平凡」を買っては、って雑誌の記事や特集がお目当てなんかじゃなくって、それに付いて来る付録の歌集が欲しかったからです。

写真は参考

弾き語り用のコードが記されている奴です!

それを眺めつつ、コードの押さえ方も拾って、ギターを爪弾いたりしたものでしたねぇ。

写真は参考

ぼくが中学生の頃のギターは、お母ちゃんが近所のお兄ちゃんから手に入れた、お兄ちゃんが使わなくなったと言う、クラッシックギターのお下がりでした。

写真は参考

それをフォークギターっぽくしたくって、黒いセルロイドの下敷きを買って、ハサミでピックガードの勾玉なような形に切り抜き、クラッシックギターのサウンドホールの下に貼って、ご満悦だったものでした。

写真は参考

最初に弾けるようになったのは、吉田拓郎さんの「旅の宿」だったかなぁ?

初めてのスリーフィンガーで!


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(458)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

こんなレモンの形をした固形石鹸、ご記憶にありませんかぁ?

ぼくはどこで使ったものやら、今となっては思い出せもしませんが、子どもの頃に使ったことがありました。

写真は参考

このポスターの写真を見ると、小学校の水飲み場とかに、リンゴやミカンが入っていたような、ビニール製の網の袋に入れられ、蛇口に取り付けられていたのかも?

写真は参考

わが家では、もっぱらこんなミツワ石鹸だったような?

内風呂がわが家に出来るまでは、近所の銭湯へお父ちゃんとお母ちゃんに手を引かれ通ったものでした。

写真は参考

こんな洗面器の中で、プラスチックの石鹸箱が、歩くたびにカタコト音を立てたものです。

写真は参考

そう言えば、石鹸箱の傍らには、こんな軽石も入っていたものでしたねぇ。

写真は参考

両親と銭湯通いをしていた子どもの頃は、シャンプーやリンスなんてぇ洒落たものなど、わが家のお風呂セットには見当たらず、ミツワ石鹸で体も頭も洗ってもらっていたものです。

それに比べると、今のお風呂セットは、あれやこれやと種類も多くなったものですよねぇ。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(457)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

子どもの頃の一文菓子屋の店先には、子どもたちの目を釘付けにして止まない、そんな魅惑的な駄菓子が居並んでおりました。

写真は参考

中でもこんな麩菓子に、ぼくは目が無かったものです。

当時は今と比べたら随分と不衛生が罷り通っていたもので、こんな麩菓子なんて裸のまんまの一本売りが当たり前。

写真は参考

子どもたちは薄汚れたままの手で麩菓子を手に取り、これにしようかあれにしようかと、とっかえひっかえ手に取ってはまた元に戻し、別の麩菓子をまた手に取って品定めする、なぁ~んてぇのが日常だった気がします。

それでも一文菓子屋のオバチャンに咎めだてされる、なぁ~んてことも無かったような?

もちろん今のように、ビニール袋で小分けなんてされてませんでしたものねぇ。

そう言えばわが家は、鹿児島生まれのお母ちゃんと、三重生まれのお父ちゃんの家庭だったからか?

同じ麩でもこの地方に根付く「角麩」は、子どもの頃から食卓に上ったことが無く、麩菓子の「麩」と元は同じと言えど、調理用の「角麩」の存在自体を知りませんでした。

写真は参考

中学に入り弁当持参となり、隣の席のH君の弁当のおかずで、初めてその存在を知ったものです。

写真は参考

H君の弁当のおかずには、角麩が甘辛く醤油味で煮締められたものが入っていて、H君の角麩とぼくの弁当のタコちゃんウィンナーだったかと、とっかえっこしてもらって、初めて食べた日からぼくはすっかりその食感に魅了されたものでした。

写真は参考

生麩を知ったのは、随分大人になってからで、これまたこんなにも美味しいものが世の中にはあるんだと、つくづく感心した事を鮮明に覚えております。

写真は参考

まぁ最近では、コレステロールを気にして、イカフライに見立てた角麩のフライなんぞを作っては、キンキンに冷やしたキリン晴れ風をプッハァ~ッとやって楽しんでおります。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(456)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

しかしまぁ、まだ子どもらの夏休み前だと言うのに、もうクマゼミたちが鳴き始め、百日紅が我が世の春のように咲き誇っています。

それにしてもこんなにいきなり、夏本番の猛暑がやって来ると、たまったものじゃありません!

ましてや熱中症警戒アラートってぇのが発令されようものなら、さすがに呑気なぼくであっても、早くも夏バテ気味となってフラ~ッとしちゃいます。

どうか皆々様も、くれぐれもご自愛くださいねぇ。

こんな日が続く今だからこそ、大汗をかきながらキリン春風を煽り、朝引きの名古屋コーチンなんぞで引きずりを、腹一杯喰らいたくなっちゃいます。

写真は参考

残念ながら子どもの頃のぼくの家では、引きずりと呼ばれる「かしわ」肉を使った、「ひきずり」ではなく、肉はお値打ちな牛のこま切れや切り落としが、申し訳程度に入ったすき焼きでした!

それでもお母ちゃんの「ひきずり」ならぬすき焼きは大好評で、お父ちゃんと競い合うように肉を取り合ったものでした。

とは言え肉がテンコ盛りならともかく、申し訳程度にしか入っちゃいませんから、あっと言う間に売り切れ!

そう言えばお母ちゃんは、ネギや白菜に糸コンばかり食べていた気がします。

それに気が付いて、「お母ちゃんも肉食べなきゃ」なんてぼくが言うと、「お母ちゃんは肉より、野菜の方がええんや」とかなんとか言って、「お母ちゃんの分の肉も、お前とお父ちゃんでたぁ~んと食べや」と、煙に巻かれたものです。

でもお母ちゃんは肉が嫌いだったわけじゃありません。

申し訳程度の量の肉しかないため、少しでもたくさん、ぼくやお父ちゃんに食べさせたいと言う、そんな母性ならではの詭弁だったのでしょう。

ぼくが初めて「かしわ」の引きずりを食べたのは、50歳をいくらか超えた頃でした。

岩倉にある名古屋コーチンの引きずり鍋の老舗で!

歯応えのある名古屋コーチンが殊の外美味しかったものです。

写真は参考

何でも「引きずり」の由来は、かしわ肉を白菜やネギの下に隠して、箸で自分の方に鍋底を引きずって、肉を手前に寄せる行為の事だとか。

なんとも親しみが感じられる呼び名でもあります。

さて今夜は、キリン晴れ風をキンキンに冷やして、かしわ肉で引きずりとでも洒落込みますかぁ!


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(455)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

ぼくが子どもの頃は、こんな竹の皮が包装紙の代わりとして、よく使われていたものです。

確か牛肉や豚肉、それに鶏肉などの肉屋さんとか、饅頭や羊羹にちらし寿司など、食品類を竹皮に包み、竹皮を細く裂いた紐状のもので縛ってくれていたものでした。

写真は参考

家のお母ちゃんは、竹皮に包まれた食品を購入した後、それを奇麗に洗って干し、遠足のお弁当のおにぎりやお稲荷さんを包んで持たせてくれたものです。

そして竹皮のお弁当をぼくに手渡しながら、「食べ終わっても、この竹皮を捨てて着たらかん。ちゃんと持って帰って来るんやで。また次に使えるで!」と、そう念を押されたものでした。

写真は参考

そんな竹皮の記憶があるせいか、未だに竹皮に包まれた羊羹などを見かけると、とんでもなく美味しそうな気になって、ついつい手にしてしまう事があります。

写真は参考

とは言え昔のように、滅多やたらと竹皮を見かけられなくなっちゃったものですねぇ。

それにしても昔の方は、竹皮の効能をよくご存知だったんですねぇ。

写真は参考

竹皮は、抗菌力や保湿力に優れ、中身が蒸れにくく、変色を防ぐと言う、自然界のスグレモノ!

写真は参考

きっとどこかで、竹皮に包まれたおにぎりとか見かけたら、懐かしさのあまり手に取っちゃうんでしょうねぇ。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(454)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

何かにつけぼくは不器用で、子どもの頃の遊びであったメンコもベーゴマも、ちっとも上手に出来ず、いつも対戦相手の上客となっていたものでした。

ところが唯一得意中の得意であったのが、ビー玉遊びの中の「メッカチ」!

ぼくらは「メッカチ」と呼んでいましたが、全国的には「目玉落とし」とかって呼ばれていたようです。

片目を閉じ狙いを定め、地べたに置いた対戦相手のビー玉目掛け、親指と人差し指で挟んだビー玉を、目の高さの位置から落とし、対戦相手のビー玉に命中させ、相手のビー玉を手に入れると言う、いたって簡単なビー玉遊び!

参考

他のビー玉遊びは、これと言って特筆すべき腕前があったわけじゃありません。

でもこの「メッカチ」だけは、ほぼほぼ百発百中だったものです。

しかし、今じゃあそんなビー玉遊びに現を抜かしているような子どもたちは、すっかり見かけられなくなり、もうぼくの得意技の「メッカチ」も、無用の長物と成り果ててしまったようです。

って、その前にもう、老眼も近眼も乱視も進んじゃって、百発百中なんて無理!

万に一つってぇのが、関の山でしょうねぇ!

写真は参考

それはそうと、何でガラス玉をビー玉って呼んでいたのか、今さらながら気になって調べてみてビックリ!

まずビー玉らしきものは、紀元前の古代エジプトやローマの遺跡からも出土しているんだとか!

日本における「ビー玉遊び」の原点は、平安時代の「銭打ち」と呼ばれる賭博遊戯にあると言う説も!

そして江戸時代になると、「穴一(あないち)」と呼ばれ、子供の遊びとなって行ったのだとか。

その過程で、それらの遊びに用いられる道具も、銭から泥めんこ、ムクロジの実(ムクロジ科の落葉高木。黒色の種子は数珠に用いられる)と変って行ったようです。

そして明治時代になると泥玉が作られ、明治30年頃から大阪でガラスのビー玉が出まわり出したとか。

それはともかく、ぼくらが何の疑いも抱かずに「ビー玉」と呼んでいた、その名はどこから来たのか?

やはり諸説あり、ポルトガル語でガラスを意味する「ビードロ」を略した名称とする説やら、ラムネ瓶の中に入れて使える、歪みや傷の無いものをA玉、不良品をB玉としてよりわけ、ラムネ瓶で使えなかったB玉は、子どもたちの玩具として「ビー玉」となって、リサイクルされ普及したとする説やら!

写真は参考

そんな由来なんて、当時の子どもたちにとっちゃあどーでもいいことで、「取った取られた」で泣いたり笑ったり、日が暮れるまで遊び呆けたものでした。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(453)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

昭和半ばの腕白坊主は、誰か彼かが必ず、こんな腕白勲章なる、油紙の傷あてパッドを、膝っ小僧や肘やらに貼り付けていたものでしたねぇ。

写真は参考

まずは傷口を、オキシドールで消毒。

写真は参考

薬液が傷口に染みて、飛び上がりそうなほどの痛さであっても、どんなに泣こうが喚こうが、お母ちゃんは一切お構いなし!

「男の子だったら、歯を食いしばりなさい!」と、情け容赦なく今度は傷口に赤チンをべったり。

その上にガーゼをあてがわれ、最後に油紙を載せ、医療用テープで隙間なくビッシリと貼り付けられたものでした。

あの油紙は、雑菌の侵入を防ぐ効果と、水濡れ防止の効果があったんでしょうねぇ。

写真は参考

中には腕白坊主だけじゃなく、ゴム飛びに夢中のお転婆娘さんたちも、同じように油紙のお転婆勲章を貼り付けている子もおりましたですねぇ。

しかし昭和も後半に入ると、さすがに油紙の勲章を貼り付けているような、そんな腕白坊主もお転婆娘も、すっかり見かけなくなったものでした。

油紙とガーゼに取って代わったのが、救急絆創膏って肌の色で目立たない、安価で手に入れられる、スグレモノの登場でしたですねぇ。

写真は参考

もっとも、それよりもなによりも、今の時代の子たちは、ぼくらの頃とは違って、公園とか広場を駆けずり回って、生傷が絶えないなんてぇ子は、いなくなっちゃったかぁ!


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(452)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

ご近所に小中学生の頃、女の子の一卵性の三つ子の同級生がおりました。

本当にそっくりで、ぼくなんて最後の最後まで、三つ子の子たちの見分けが付かなかったものでした。

写真は参考

そう言えば、三つ子の子たちの名前も、すっかり思い出せそうにありません。

ただ、例えば「由美・真美・久美」と言った感じで、一文字だけ三人とも同じ漢字が当てがわれていたように、微かに記憶しています。

当時の小中学校は、今のような少子化ではなく、1学年のクラスも多かったものでした。

だから、三つ子の一人と一緒のクラスになることはあっても、三つ子の内の二人や、三つ子全員と一緒のクラスになったことはありませんでした。

だから翌年のクラス替えの時に、また三つ子の一人と一緒になったとしても、それが前年一緒だった子なのか、はたまた別の子なのか、ぼくにはちっとも見分けが付かなかったものでした。

しかし思い返せば先生方は、よくもまぁ三つ子の子たちを見分けられたものだと、未だに感心するばかりです。

って、先生方ももしかしたらぼく同様に、本当は見分けが付かなかったのかも?

参考

そう言えば、TVアニメの「魔法使いサリー」の中にも、男の子の三つ子が登場していましたよねぇ。

こっちも一卵性なのか、三人が三人ともそっくりでした。

ちょっと調べて見ましたら、最近の三つ子の女の子たちに人気の名前は、「清那(せな)羽花(はな)萌杏(もな)」なんてぇのもあるそうです。

となると、担任の先生方は、三人の顔の見分け方にも苦慮なさることでしょうが、名前の読み方でもご苦労なさるんじゃないか?なぁ~んて、入らぬお世話を抱いてしまいましたぁ!

そんなことはともかく、ぼくと同級生だった三つ子の女の子たちは、すっかりお婆ちゃんとおなりになったのは否めなくとも、それぞれにお元気で、お幸せに暮らしであれと、心からそう祈ります!

って、ぼくだって、押しも押されもせぬお爺ちゃんなんですものねぇ!

なんてぇこったい!


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(451)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

こんな洒落た可愛らしい醤油入れが、ぼくの中学の頃の弁当箱に入っていたなら、周りのみんなに羨ましがられたろうか?

写真は参考

とは言え、ぼくが中学生の頃は、家のお父ちゃんも出張などほとんどなかったし、関東からの客人も無かったから、横浜名物のシュウマイ弁当など知る由もなかったでしょうが!

写真は参考

大人になって東京~名古屋を往復するようになってからと言うもの、不思議にもホームのキヨスクでキリンの缶ビールと、このシュウマイ弁当を買う事が結構あったものです。

弁当の入れ物は捨てても、この陶器製の醤油入れは捨てられず、家に持って帰ったものでした。

よくよく見比べると、色んな図柄の物があったんですねぇ。

果たして全部で何十種類あるのやら?

写真は参考

中学時代の新聞紙にくるまれた、アルマイトの弁当箱には、こんな醤油入れが添えられていたものです。

写真は参考

今じゃ、こんなお洒落なものもあるんだそうですねぇ。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(450)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

P20kotonohaのコピー

フルサイズの長文は、こちらから!

飛騨びと言の葉綴り~古川町・谷口充希子さん – 飛騨市公式ウェブサイト


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

昭和も終盤戦に入った、20歳代の頃、ここまでの酷暑ではなかったかも知れませんが、夏になるのを待ちきれずに、冷蔵庫でキンキンに冷やしたビールをグビグビと煽ったものでした。

写真は参考

特にお気に入りだったのは、こんなキリンビールの2ℓ入りの生ビール!

写真は参考

これを買い込んじゃあ、付属のキリンを模した注ぎ口を取り付け、ビアジョッキに豪快に注ぎ入れ、一息にジョッキを煽ったものです。

写真は参考

やっぱり何と言っても肴は、夏バテ対策を兼ねた揚げ物が一番でしたねぇ!

戦前のキリンビールには、こんなレトロで素敵な、特大大瓶があったようです。

写真は参考

もし今でもこんなレトロな、特大瓶入りのキリンビールが存在していたら、ぼくはきっと大人買いしちゃうでしょうねぇ!


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。