長良川母情⑧(2008.8月新聞掲載)

浜辺に打ち寄せる波。

灼熱の太陽に背伸びでもするかのような椰子の木。

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ハイビスカスの咲き乱れる木陰では、茶褐色の肌をした娘たちがゆったりとフラを舞う。

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そう、ここは常夏の楽園「HAWAII」。

って、「長良川母情」の取材先が「ワイキキビーチ」であろうはずはない。

あまりの暑さで朦朧とし目も霞んだか?

両目を指先で押して見る。

だがどこからどう見ても目の前に立ちはだかる光景は、日本各地の山間(やまあい)で見かける長閑(のどか)な農家だ。

「ああっ!」。

「あれ全部私がコツコツと描いたの!」。

納屋の真っ黒な壁面が、日本の原風景の中に突如として現れたワイキキビーチに占拠されている。

「中の庭も南国ムードたっぷりよ」。

ほんの2時間ばかり前に知り合ったばかりの律っちゃんは、そう言いながらぼくを中庭に招き入れた。

なるほど庭の中心に横たわる池の周りで、南国ムード満点に色とりどりの小物たちが真夏の太陽を弾き返す。

「ちょうどお昼やし、お弁当ついでに頼んどいたから一緒に食べよ!」。

レディーのお誘いとあらば、断るのも無粋。

早速ご相伴に(あずか)る事に。

ぼくの一番新しいガールフレンド「律っちゃん」は、本名清水律子さん(68)。

長良川鉄道の郡上大和駅を東へ向かった、156号線手前の喫茶店「横道」のママさんだ。

律っちゃんは、昭和36年に製材業の二代目を継ぐ故真志(まさし)さんと結婚。

一男一女に恵まれた。

「青年団のフォークダンスで出逢って、私に一目惚れやて」。

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しかし家業の製材業は、輸入材の普及と共に衰退の憂き目に。

「子どもが小学校へ上がったころ、いつか自分で店開こうと調理師免許取ってね。それで昭和46年に開店したんやて。でもそれが大変やったんやて。親戚中から『水商売はあかん』って、挙句に家族会議で大揉め」。

律っちゃんは一人大笑い。

それから10年の歳月が流れたある日。

「小さな竹の橋」というハワイアンの名曲に心奪われることに。

「『ああ、私も踊ってみたい!』って、魂が掴み取られるような感じ。でもまだ子育てもあるし、その想いは心の奥にしまい込んだんやて」。

目まぐるしい日常の中、すっかりフラへの想いも消え入りそうになった頃、夫が癌を発病。

「治療が始まって、残りの人生二人で一杯思い出作ろうって、旅に出るようになったの」。

そんな日々が3年も続き、癌の進行も止まったかに見えた。

「主人もすっごい元気になって来て。『こん時やあ』って、フラの教室に通いたいって切り出したの」。

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しかし半年後に容態は急変。

「結局156日間も病室に泊り込むことに。でも主人とよく笑ったわ。『三食据え膳で二人っきり。まるでリゾート気分やね』って」。

今年七回忌が無事営まれた。

「でもフラのお友達が一杯だから、寂しくなんてないし、お店は午前中だけ開けてお客さんに遊んでもらってるの。呆け防止にね」。

フラガールの母、律っちゃんは真夏の太陽を恋しそうに見つめた。

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9/23 その①「ついに満開!あの彼岸花たち」

9/23にアップしたつもりで、うっかり忘れていましたぁ!

こっそりと茎を伸ばしていた彼岸花たちが、時期を違えることも無く見事に揃い咲きしていました。

それにしても、見れば見るほど不思議過ぎる植物ですよねぇ。

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長良川母情⑥(2008.6月新聞掲載)

「私らの娘時代は『男衆の下駄を跨いだだけで子が出来るんやで、おまんたぁ気いつけろよ』って言われたもんやて」。

長良川鉄道、美濃白鳥駅を西に向かった白鳥橋。

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長良の川堤で行き会った老女は、懐かしそうに笑いこけた。

郡上市白鳥町のお宿「あづまや」の老女将、曽我綾子さん(87)だ。

腰を曲げ土手のドクダミを摘む綾子さんと、何故か意気投合。

いつしか身の上話と成り果てた、そんな挙句の台詞だった。

何でも腸の癌が胃に転移し、自分で調合した野草茶を毎日煎じて飲み続けているとか。

花梨、柿の葉、熊笹、桑の葉、蓬、甘茶蔓、ハコベラにドクダミを、春になると毎年せっせと自分で摘んで歩くそうだ。

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「私は呑気な性格でたぁけ面しとるで、たとえ癌でも流行り風邪と一緒みたいなもんやて」。

薬草茶を飲み始めてからと言うもの、さすがに病が消え果ることは無いものの、それ以上に悪化することも無いのだとか。

現に顔の色艶もよく、おまけによく笑う。

まるで箸が転んだだけでも笑い転げる生娘の様だ。

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「そりゃああんた、漢方薬のせいやわ。それで汗っかきの身体に改良されたんですやろ」。

昔取材で訪ねた、紀州徳川家お抱えの薬師(くすし)の末裔は、汗かきで困りますと軽く相談したはずのぼくを、にべも無くそう一言で斬り捨てた。

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ぼくが中学2年生の頃、今を遡る36年前。

くしゃみと鼻水がどうにも止まらず、朝から晩まで頭がボーッ。

当然授業など頭に入るはずも無い。

今でこそ花粉症と言う大層立派な病名が付けられているが、当時は花粉症等と言う言葉すら存在していなかった気がする。

それが証拠に内科医の診断はアレルギー性鼻炎。

毎日毎日注射を打たれ、頭はも一つおまけにヌボーッ。

何処からが自分で、何処までが自分であるかさえも(うつ)ろだった。

さすがに大雑把な母も見るに見かね、近所の薬局に相談し市販の漢方薬を買い求めた。

恐らく水泳の授業で頂戴した、陰金田虫の薬を買いに行ったついでに。

「これは頭もボーッとせんし、眠くもならんらしいで、ちゃあんと朝昼晩の三回飲まなかんよ」。

母は葛根湯と書かれた、顆粒の薬を差し出した。

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それ以来、葛根湯はアレルギー性鼻炎の薬だと信じ込み、およそ2~3年ほど飲み続ける羽目に。

何事も、信じるものは救われる?

いやいや、ところがどっこいぼくのアレルギー性鼻炎は救われた。

気付けばいつの間にか頭のボーッも、くしゃみも鼻水も止んだ。

だが今となって思い返せば、それと入れ替わりに暑がりで汗っかきになっていた気もする。

「そりゃああんた、葛根湯は身体を温めて熱を放出させるんやで、汗かいても仕方ありませんわ」。

薬師のご明解。

でも本当は、大人になってから薄々気付いていた。

葛根湯がアレルギー性鼻炎のための薬では無いことに。

それが恐らく風邪の薬であることも。

しかし貧しい我が家の家計を遣り繰りし、内職のお金で保険も利かぬ高価な漢方薬を飲ませ続けた母を思うと、どうにもただの風邪薬だったとは思いたくなかった。

「まぁ、あんたも騙されたと思って飲んでみやぁ」。

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綾子さんに連れられ、「あずまや」へと上がり込んだ。

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「あんたは初心者やで、番茶で薄めといたんやて」。

若女将に差し出された湯飲みを傾ける。

ほんのりと甘い味わいが喉元に広がり、湯気と共に野の馨りが鼻腔をやさしくくすぐる。

まるで在りし日の母が、陽だまりの土手にしゃがみ込み、摘んでくれたようなとっておきの薬草みたいだ。

「美味い!もう一杯!」。

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思わず口を吐いた言葉に、綾子さんが生娘のように笑い転げた。

そして急須を取ろうとソファから徐に立ち上がり、曲がった腰に手を当て伸ばし始めた。

きっと母も、腰を庇うように土手から立ち上がったであろう。

「よっこらしょっと」。

何処からとも無く母の声が、鼓膜ではなく脳裏の彼方で聞こえた。

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長良川母情⑤(2008.5月新聞掲載)

山間(やまあい)の春は、川下の町を若葉色に染め上げながら、川上へとゆっくりやって来る。

長良川鉄道の白山長滝駅と白鳥高原駅との中間、郡上市白鳥町二日町上切地区には、村人たちが架けた名も無き吊橋がある。

俗称「上切橋」。

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長良川の川幅も悠に50㍍に達し、山々から流れ込む雪解け水の流れは速い。

時折り春に(むつ)み会う鳥の声だけが、川沿いの森にこだます。

覚束(おぼつか)ない足取りで杖を片手に、ゆっくりと一人の老婆がやって来た。

(おもむろ)に吊橋の(たもと)に腰を下ろし、春の陽射しに彩られた里山と長良の川音に耳を澄ましているようだ。

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「ごめんね、お母さんびっこで。周りのお母さんたちみたいに、綺麗じゃないし。一緒に歩くの恥ずかしいんだろ?」。

40年前、母は不意に涙ぐみ、そうつぶやいて立ち止まった。

大粒の雨音に母の言葉が消え入る。

改めてそう言われるまで、ぼくは全く気にもしていなかった。

そう言えばあの日は何かの式典で、何時に無く母もスカート姿にハイヒールだったからだろうか。

コツコツとハイヒールで一定のリズムを刻み、会場へと向かう親子連れが颯爽と行過ぎた。

「お母さん子どもの頃、学校の階段から落ちてね。でも戦争中だったから、満足に治療してもらえなくって。こんなみっともないお母さんでごめんね」。

帰り道母は、すまなさそうにそう繰り返した。

その後ぼくは健気にも、母のびっこを治すため医学を究めたい等と、あらぬ限りの大言壮語を吐き母の嬉し涙を誘ったものだ。

だが結果は、しがない文綴りのていたらく振り。

重ね重ねの親不孝が、幼き頃の大志と見るも無残に変わり果てた。

だから母のびっこは、年を追うごとにその落差を増し、終末は大きく上半身を傾げなければ歩を進めることもままならなかった。

吊橋の袂に(たたず)む老婆の姿と、在りし日の母が重なり合う。

(よわい)を重ね不自由になった老婆の足腰は、永年の野良仕事と小さな身体で家族を支えぬいた、誰に(はばか)る事も無い立派な勲章だ。

「ここへ嫁いで来た頃は、二本の丸太が架かっただけの大川じゃった。山の草箱から肥料用に主人と草刈って、それを(おい)ねて『どっちの足から出そうかしゃん』って、そりゃあ怖かったもんやて。だって大川に架かった丸太の上を、曲芸師みたいに毎日行き来するんじゃで」。

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郡上市白鳥町二日町上切の尾村きくさん(88)は、森の向こうに遠き日々を透かし見た。

きくさんは近在の村で大正8年に誕生。

戦火が日毎激しさを増す昭和17年に、尾村家の後妻に入った。

「そしたら翌年主人が召集されてまうし、先妻の二人の子と赤子を抱え、舅姑も一緒に空襲警報が鳴り出すと必死で逃げ惑ったもんじゃて」。

終戦後、夫は無事に復員を果たしたが、病を患い6年近くも寝たきりの生活が続いた。

「育ち盛りの子を食べさせなかんのに、大工だった主人は病気で仕事も出来んのやで。『貧乏ってつくづくこんなもんやなぁ』って毎日嘆いてばっかりじゃった」。

やがて村人たちの念願であった現在の吊橋「上切橋」が完成。

「上切の部落の者らが、『今日はお前んとこやで、明日は(うち)んとこやな』ってな調子で、冬場は二軒ずつで橋の上に降り積もった雪下ろしをするんじゃて。でもそうまでしても山には、なぁんもええもんなんてないでね。せいぜい(わらび)(ぜんまい)程度やわ。だけどご先祖様が大切にして来られた山やで」。

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川面を伝う春風が、木々の小枝ときくさんの白く短い髪を揺らして吹き抜ける。

この村に嫁ぎ、はや干支も一巡り。

この大地にしっかりと根を張り、今日まで苦楽の日々を暦に刻み続けた。

「最近息子らが家を建てて、昔のボロ家から日当たりのええ部屋宛がってまえたんじゃて」。

きくさんは水が張られたばかりの田んぼの向こうを、指差しながら微笑んだ。

苦楽を載せた天秤量りは、大きく上下に揺れながらも、やがていつか必ず水平に帰す。

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両の皿に載るのは苦楽ではなく己が心。

苦楽の重さを比べるのは、己が心の匙加減一つ。

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9/23 その② 長良川母情④(2008.4月新聞掲載)

今にも湯気を立てそうなほどふっくらとした桜色の手が、五平餅を捧げ持ち暖簾の下から差し出された。

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長良川に架かる平家(へいけ)(だいら)(ばし)から南へ。

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郡上市白鳥町、長良川鉄道の終着北濃駅を越えた、道の駅しろとり。

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そう言えば遠い日の母の手も、いつも水仕事で桜色だった。

おまけに指先は、あかぎれでパックリと割れ果て。

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今のように湯沸かし器すら無い時代。

凍て付く冬のお勝手仕事は、さぞ辛かったに違いない。

ましてや泥だらけの田んぼを、朝から晩まで平気で駆け回るような腕白息子を持っていたのだから、洗濯物に不自由することなんて無かったに違いない。

三種の神器に登場する自動洗濯機なんぞ、折り紙つきの庶民といえる我が家に登場するのは、まだまだ時代が下ってからのことだ。

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だから母はいつも、玄関先の小さな冬の陽だまりに(かな)(だらい)を据えていた。

汲み置いた水が、ほんの少しだけでも日光で温むのを待つために。

そしておもむろに盥を内腿で挟み込むように屈み、洗濯板にメリヤスの長袖シャツや股引をこすり付け、せっせと一枚一枚手洗いを続けた。

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だから指先はいつもあかぎれまるけ。

母に手を引かれ、市場へと買い物に向かう道すがら、ガサゴソの指先に触れるたび、ぼくの小さな心までひび割れる気がした。

お腹が痛い、頭が痛いと泣き叫べば、直ぐにガサゴソの掌が医者代わり。

でもそんな時は、ちっともあかぎれだらけのガサゴソ感なんて、気にもならなかったものだ。

母の桜色した魔法の手。

五平餅を差し出した桜色の手は、母の手なんぞよりもずっと上品だった。

「どうやね、美味いやろ?そりゃあそうやて。タレが決めてだでね。家のはピーナゴサンショ入りやでね。はぁ?ピーナゴサンショってなんやって?そんなもん、そのまんまやて。ピーナツにゴマ、それに山椒入りってことやわ」。

畳み三畳でも十分の大店(おおだな)、その名もズバリ「五平や」。

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同市千田野に住む、長谷川邦子さんが大笑い。

邦子さんは昭和18(1943)年、農家の長女として生まれた。

高校を卒業すると10歳年上の夫の元に、幼な妻として嫁ぐことに。

「親が勝手に決めてきちゃって、いきなり結婚やわ。たった一度の青春時代を、人妻で過したんやて」。

とは言うもののやがて、一男一女に恵まれた。

「家は主人が勤め人やったもんで、年寄り衆の面倒見ながら子育てしもって一人百姓やわさ」。

子ども達も成長し、夫も既に定年を迎えた平成9年。

「主人は定年でず~っと家におるようになって、二人でじ~っと向かい合わせでおってもねぇ。そんなら土日だけ、プチ家出でもしたろって。それまで五平餅なんて作ったこともなかったに、この店を始めたんやて」。

注文が入ってから握る自家製おにぎりと、春先から始まる朴葉ずしもいつしか品書きに加わった。

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だが4年前、ママサンバレーでアキレス腱を切断。

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休業を余儀なくされた。

そんなある日、隣りの店から電話が入った。

富山県の砺波から80歳過ぎの老夫婦が訪れ「いつ来ても休みやなぁ」と、店の前で困り果てていると。

「そういえば2ヶ月に1回ほどおいでんなるあのご夫婦やって思い出して。娘に店開けるように頼んで、五平餅焼いてもらったんやて」。

五平やの母は、桜色した掌を揉みしだきながら、まだ頂にうっすら雪の残る山並みを見つめてつぶやいた。

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「『ここのは味がいいで』って言ってもらえるのが、一番の楽しみやわ。ここにおると若い人らからお年寄りまで、色んな人らと行き会えるやろ。そうすると、もう少し頑張ろかって気になって来るんやて」。

長良川の川堤で春を待ち侘びた桜の古木。

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淡い薄紅色の衣をまとい、川面に艶やかな姿を揺らし続ける。

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長良川母情③(2008.3月新聞掲載)

しわがれた母の涙は、岩清水よりも清らかに澄みきっていた。

不意に目の前で中島ひささん(92)は涙ぐんだ。

語り終えた遠い日の不幸な出来事から、干支も早や一巡りもしたというのに。

老婆は今でも、あの日のままの母であり続ける。

長良川分水嶺から国道156号線に沿って南へ、六洞橋から脇道へと反れ、湯の平温泉を抜ける。

まだ川幅も狭い長良川に、ひっそりと寄り添うような中洞地区の小さな集落が現れた。

鷲見城跡からほどない『宮ケ瀬橋』。

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橋の中ほどに立ち長良の流れを見つめていると、上流で行き会った宿屋の主人の言葉がよみがった。

「戦後の開拓団が入った時代、この辺りは『(さん)(ぱく)』産業だけやったんやて。一つは牛乳の白、二つ目は鷲見大根の白、三つ目が雪の白。それで何とか食うてくしか他に何にも無かったんやで」。

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長良の流れは両岸に生きる人々の、嘆きや溜め息を呑み込み、片時も休むことなく今なお流れ続ける。

ひささんは大正5年に西洞で生まれ、入り婿を得て男子二人を生した。

だが日華事変に突入した昭和12年。

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幼児(おさなご)を残したまんま、主人に死なれてもうたんやわ。それからと言うもの、どんどん戦時色が深まって。何とかほそぼそと百姓して、再婚せんで子どもら育て上げようと必死やった」。

しかし戦局は日増しに悪化。

「あと三ヶ月で米が穫れるのに、それまでが待てんで(ひえ)なり買って子どもらに食べさせて。やっと戦争が終わったと思ったら、今度は大飢饉やわ」。

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そこへ再婚話が持ち上がった。

「『あの人と一緒になったら、米をたぁんと持ってござるぞ』って、周りのもんらに勧められて。米欲しさで、相手の顔を見ることもなく一緒になったんやて」。

終戦直後の混乱期、ひささんは命を紡ぐ『米』と引き換えに、再婚へと踏み切った。

当座の餓えへの心配は無くなったものの、高度経済成長に沸く都市部とは異なり、山間(やまあい)の村の暮らしはけっして楽なものではなかった。

そんな中、先夫との間の男子二人が中学を出て社会へ。

間も無く後夫との間に男子二人と一女が誕生した。

倹しい暮らしと引き換えに得た、家族水入らずの平安なひと時。

ひささんはこの掛替えの無い時間が、いつまでも続くことを心の底から願った。

戦後の復興振りを世界中に知らしめ、昭和39年に東京五輪は閉幕した。

参考資料

その年、中学3年生の長男が難病を発症。

すると間も無く中学2年生の次男が、川遊びで頭部を強打する事故に。

「夫と二人して稼いで、やっとの思いで大学病院で手術受けさせたんやて」。

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次男は二ヶ月後に退院。

しかしそれも束の間、今度は長男と同じ難病に取り憑かれる破目に。

ひささんは土木作業に従事しながら、各地の名医を訪ね歩いた。

「何度この子ら連れて死のうかと思ったことか。不憫でならんかってね。でも末の娘も気掛かりやし、とうとう死に切れんだ。だからそれからは『笑える日がいつかきっと来る』って、何度も呪文のように繰り返して、心の中に棲む悪魔の声を振り払ったもんやって」。

ひささんの声が詰まった。

深く刻み込まれた顔の皺を、澄んだ涙が横へと伝う。

翌年ひささんは、二人の息子を相次いで亡くした。

「どうせ治らん病気なら、好きな物を好きなだけ食べさせてやりたかった」。

あれから43年の歳月が過ぎたと言うに、未だ母は母。

どんなに齢を重ねても、心はあの日で止まったままだ。

「主人を亡くした20年ほど前から、近所で詩吟を始めたんやて。おかげで友達も出来たし。なんやら難しい漢詩を意味もわからんと、腹にたばって(しまって)ある声張り上げて吟ずるんやわ」。

まるで二人の息子の菩提を弔うかのように、ひささんは小さな身体で一節を吟じた。

「身体は生きとる子どもらに。心は死んだ二人の息子のもの」。

激動の昭和という時代に翻弄されながらも、気高く生き抜いた小さな母。

高鷲の町を白く覆った雪も、やがて雪解け水となり長良を下って行くことだろう。

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なんぴとにも桜咲く春は、違えることなく必ず平等に訪れる。

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春よ来い。

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長良川母情②(2008.2月新聞掲載)

「きっと左が旦那で、右の華奢な方が嫁さんなのかなぁ?」。

健気に寄り添うような長良川源流の名瀑「夫婦滝」。

夫婦滝

17㍍の落差で大日岳に清められた聖水が、滝壺へと一直線に注ぎ込む。

一面真っ白な雪化粧、眼前の苔生した岩肌を氷柱が覆い尽くす。

夫婦滝の冬景色

このわずかに上流、長良川源流の碑からほどない場所に、一つ目の橋とされる下ノ(しもの)(かます)(ばし)はあった。

だがどこをどう見渡してみても、人っ子一人現われるわけではなく、人家すら一軒も見当らない。

ただ大日岳の清流だけが片時も休まず、寡黙に太平洋を目指し下り続ける。

「父が荘川村からここへ移り住んだ戦後間もない頃は、まだ周りに5~6軒しか家がなかったんやて」。

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郡上市高鷲町の分水嶺東側、ペンション・喫茶「わたすげ」を営む直井はるみさんは、テーブルにコーヒーをセットしながら笑った。

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はるみさんは昭和25年、営林署に勤務する父の元で一人っ子として誕生。

中学を出ると愛知県木曽川町の繊維関係に就職。

郷里に残した両親を案じながらも、高度経済成長に沸く時代を謳歌しながら娘時代を送った。

昭和46年、隣りの集落から信一さんを婿に迎え、3人の子を生した。

「結婚してしばらくしてから、母と民宿を始めたんやわ。スキー客目当てで、たったの5室やったけど」。

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名古屋や関西、遠くは四国からも常連客の学生たちが訪れ、小さな民宿は若者たちの笑い声で賑わった。

「まあちっさな民宿やったで、お客さんもみんな家族みたいなもんやって」。

学生たちもやがて社会人に。

そして結婚。

今度は夫婦や家族ぐるみで訪れるようになった。

「みんなからお母さんお母さんって呼ばれて。本当の母親みたいに慕われるもんやで、ついつい情が移ってねぇ。今では親戚以上の親戚付き合いやわ」。

昭和62年には、老朽化した民宿を建て直し、現在のペンションへと改装を済ませた。

「平成になって間もない頃やったかなぁ?愛知県からスキーに来とった男の子から電話があったんやて。『ぼく結婚することになったで、お母さん仲人しに来てくれんか?』って。最初は戸惑ったけど、これも何かの縁やろし夫婦で仲人させてもらったんやて」。

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はるみさんはカウンターの中で、真っ白な湯気を上げながらコーヒーを淹れる夫を見つめた。

ストーブで温まった喫茶店の店内。

窓ガラスを結露が伝い、一筆書きのような奇妙な文字を残しゆっくりと流れ落ちて行く。

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降り積もった雪に埋もれる分水嶺公園。

白樺林を縫うような小川が、ここを境に日本海と太平洋とに流れを分かつ。

右へ進路を切れば日本海。

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左へ向かえば太平洋。

か細い大日岳の清流は、山を一挙に駆け下りやがて大河となり、それぞれの大海を目指し大いなる旅を続ける。

人の一生もこれまた然り。

何時か何処かで分水嶺のような分岐点に差し掛かかっては、時の勢いや風を読み進路を定める。

善くも悪しくも、流れに抗うことなど叶わぬのが人の道。

「実の子は3人やけど、民宿のおかげで沢山の子を授かった気がするんやわ。だから雪が降り始めると『ただいま~っ!』って声がして、今にも誰かかれかが帰って来る気がしてならんのやて。だからいつ帰って来てもいいように、取って置きの『お帰りっ!』を用意しとかんと。だってわたしはあの子らにとって、雪国の母なんだから」。

長良の源流で出逢ったはるみ母さんは、今夜もスキー客を母の深い慈愛で包み込む。

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長良川母情①(2008.1月新聞掲載)

三和土(たたき)でけたたましい音を上げる、母の下駄の音にぼくの初夢はついえた。

せっかくあと一息で、あこがれだった「お子様ランチ」のエビフライに、噛り付けたというのに。

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デパートのショーウィンドー越しに、母の目を盗んでこっそり眺めるだけで、未知の味を想像し口中に唾があふれ出すほどに(かぐわ)しかった「お子様ランチ」。

楕円状になった銀のトレーの上に、こんもり丸く盛り上がったご飯。

その頂に翻る爪楊枝の日の丸は、机の引き出しの中で宝物の一つとなるはずだったのに。

母の下駄の音は、テレビドラマが佳境に至る寸前、決まって突如割って入る無粋なCMそのもの。

情緒もへったくれもなく、超現実の(うつつ)へと連れ戻されてしまった。

あまりの口惜しさにたまらず、布団の中の身体も震え出したようだ。

「正月だと思って、いつまでいい気になって寝とるつもりやぁ!」。

元日から母のおぞましい怒りの声が間近に迫る。

と同時に、既に掛け布団は引っぺがされていた。

「雑煮が伸びてまうで、早よせんと知らんでねっ!」。

寝ぼけ眼をうっすら開けば、オタマ片手に母が仁王立ち。

一張羅の着物の上に、すっかり黄ばんだ割烹着。

年末に美容院でアップに結った髪を、日本手ぬぐいのほっかぶりで覆い、こめかみには四角く切った小さなトクホンが。

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今思えばその何とも不思議な出で立ちが、ぼくにとって紛れもない昭和三十年代終盤の母の残像だ。

母がこの世を去ってはや十五年。

既にぼく自身、とうに当時の母の(よわい)を超えた。

だからなのか、無性にあのころの正月が懐かしい。

折り畳み式の小さな円卓に並ぶ、山盛りのおせち。

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今風の見てくれの良さなどみじんも無い。

煮物に金時、田作りと昆布にかまぼこ、焦げ色の付いたちょっといびつなだし巻き卵とくず数の子。

大人になるまでぼくは、数の子の本当の姿を知らずにいた。

だから大人になってすし屋で一腹もんの数の子を見た時、「それは同じカズノコと言う名の別の食べ物だ」と自信満々に言い放ってしまい、周りの同僚たちがたまらず腹を抱え笑い転げたものだ。

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だがやっぱりぼくにとっての数の子は、あのくず数の子でなければならないのだ。

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母は貧乏な家計をやりくりし、そこそこに折り合いを付けながら、精いっぱいの思いを込め正月を迎えさせようとしたのだろう。

新年を寿(ことほ)ぐため最低限のおせちを整え、ぼくが箸を付ける度に古人の言い伝えを語った母。

自分のことはいつでも何でも後回し。

元日の朝、父とぼくの枕元には、真新しい下着と新品の服が用意されていた。

でもそういえば母の晴れ着は、ぼくが大人になってからも毎年同じだった気がする。

また一つ齢を重ねる新年。

そのたび、母恋しさがまた一つ深まる。

出来ることなら戻りたいあのころへ。

そしてもう一度会いたい、あのころの若き日の母に。

<追記>長良川の辺で昭和を生き抜く母を追った「長良川母情」。究極のマザコン追想記だと思って、お読みいただければ何よりです。

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昭和がらくた文庫105話~最終話(2019.08.22新聞掲載)~「白球を手榴弾に持ち替えたエース」

今を遡る85年前、昭和9年。

二度目の来日を果たした、全米オールスターチーム。

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その中には、あの大リーガー、ベーブ・ルースもいた。

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静岡県草薙球場で迎えた第10戦。

全米軍を相手に6回まで、大リーガーを切り切り舞いさせ、ベーブ・ルースの1安打だけに、抑える活躍を見せた17歳の若者がいた。

それが三重県伊勢市出身、京都商業(現/京都学園高)中退の沢村栄治だ。

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左足を大きく跳ね上げ、豪快なフォームから繰り出す、160㌔を超えたと言われた剛速球と、三段に落ちるカーブが武器。

その年の暮れ、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)」に入団。

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だが対戦相手となるプロ球団が国内に誕生しておらず、翌年米国に遠征。

128日間で109試合をこなし75勝。

剛速球と三段落ちのカーブを武器に、沢村は敵地で三振の山を築いた。

そんな沢村の活躍に目を付けたのが、大リーグのピッツバーグ・パイレーツのスカウトだった。

サインを求めるファンを装い、入団契約書を差し出したのだ。

寸でのところで同行者が気付き、難を逃れたとか。

もしその時、沢村が知らぬままサインをしていたとしたら…。

昭和10年に日本人初の大リーガーが、誕生していたろうか?

昭和12年、日華事変が勃発。

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日本は抜き差しならぬ、戦争の泥沼へと歩を進めて行った。

沢村は2年間のプロ野球シーズンを終え、バットを銃に持ち替え、昭和13年1月中国戦線へと出征。

戦地では肩の強さを買われ、最前線でボールを手榴弾に持ち替え、敵陣へと豪速弾を放り続けた。

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昭和15年に復員し、プロ野球に復帰。

手榴弾の投げ過ぎが祟り、球速は衰えていた。

にも拘わらず、球史に燦然と輝く三度目のノーヒットノーランを記録。

再び昭和17年、二度目の招集でパラオへと出征。

翌年復員しマウンドに登ったものの、球威はおろかコントロールも奪われていた。

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そして昭和19年12月2日、三度目の出征でフィリピンに向かう途中。

沢村を乗せた輸送船は、台湾沖で米艦隊の魚雷により撃沈。

沢村は二度とこの世に戻れぬ、最後のデッドボールを食らい非業の死を遂げた。

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「沢村さん。お辛かったでしょうね。あなたの類稀な右肩は、人々を歓喜させるものであり、決して人を哀しみの淵に追いやるものではなかったはず」。

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ところが無謀な国策の果てに、何度となく観衆の見守るマウンドと、血塗られた戦地を行き来した。

観衆の夢を乗せる白球さえ、いわれなき人々の命を奪う手榴弾に持ち替えさせられる羽目となった。

それが戦争の惨たらしさそのものである。

明日からは、別のシリーズをお届けいたします。

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昭和がらくた文庫104話(2019.07.25新聞掲載)~「夜空を焦がすレクイエム」

今となっては、アノ(・・)事が夢だったのか、それとも(うつつ)であったか。

もう両親に問い質す術もない。

それはぼくがまだ4つの頃のことだ。

あの忌まわしい伊勢湾台風から3年しか経ておらず、きっとまだ町のあちらこちらに爪痕も残っていただろう。

ぼくは両親に手を引かれ、家のアパートから歩いてすぐの、名古屋の内田橋まで、花火大会に出掛けた。

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まだ夏の掛かりだったから、恐らく熱田祭の花火ではなかったろうか。

色とりどりの花火が、夜空に大きく舞い上がる。

すると両親は繋いでいたぼくの手を放し、頭を垂れ両の手を合わせた。

ふと周りを見上げると、両親同様に両の手を合わせる大人たちが。

ぼくはてっきり皆、熱田の大神に額づいている、とそう思ったものだ。

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しかしそれから幾度となく花火を眺めるうちに、はたと気付いた。

あの日、熱田祭の花火に手を合わせた両親は、伊勢湾台風の犠牲となった、尊い無辜(むこ)の命への、レクイエムだったのでは!と。

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花火は夜空を見上げる人々の、その時々の心模様によって異なる。

恋人同士で見上げる花火なら、底抜けに陽気で心ときめくに違いない。

しかし一方、忌まわしい敗戦の翌年や、或いは自然災害の後に打ち上げられた花火。

突然降りかかった災いに、尊い家族が犠牲となった遺族の目には、どんな風に映ったであろう。

あの日両親や、何人もの大人たちが手を合わせた、熱田祭の花火のように、花火の大輪は人々を悼む想いを乗せ、夜空を焦がしたのだ。

ヒュルヒュルヒュル~と夜空に舞い上がる花火は、幽冥界に()()す、累代のご先祖様への狼煙だ。

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「まがりなりにも私たちは、今年も平和な世を、また一年積み重ねることが出来ました」と。

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