3/31の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

なぁ~んちゃって!「焼きそば~ン・イカ煎タコス」

皆々様からも、非常に正解に近い回答もお寄せいただきました。ありがとうございます。

正解は、海老煎ではなくイカ煎をタコスの生地のように見立て、広島焼き風にソース焼きそばの残り物ととろけるチーズで、超簡単な手抜きクッキングに仕立てましたのが、この「なぁ~んちゃって!『焼きそば~ン・イカ煎タコス』」です。

何故海老煎ではなく、イカ煎にしたかと言いますと、海老煎は割れやすく粉々になるからです。その点イカ煎は、海老煎よりは割れにくく、具材の焼きそばの油を吸うと柔らかくなり、タコスのように半分に曲げられて、焼きそばを挟んでしまえるからです。

作り方は、超手抜きです。まず残り物のソース焼きそばをレンジでチンして過熱し、イカ煎の中央に盛り付け、とろけるチーズを上からたっぷり振りかけ、そのままオーブントースターでとろけるチーズに焦げ目が付く程度に焼き上げ、上に彩を兼ね紅生姜を添えれば完了。

これが侮るなかれ!イカ煎のパリパリ感に、とろけるチーズが絡んだ残り物の焼きそばが見事に生まれ変わり、キリン一番搾りにドンピシャな、イケテルB級残り物グルメの誕生となりました。

きっとお子様にも喜んでいただけそうな、超手抜きクッキングですので、一度お試しあれ!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「Sunday Walking きまぐれ Shot!~これって鳩の専用ベンチ?」

ウォーキングの途中でこんな不思議な光景を見掛けました。

このシチュエーションの何処に違和感を感じたのだろうかと、よくよく考えて見ました。

本来ならば、公園の木陰に置かれた木製ベンチであったら、何の違和感も無かったことでしょう。

そしてベンチに腰掛けた老人がパン屑を撒くと、物怖じしない鳩たちが一斉に寄って来たのであれば、これまた納得です。

しかしこのベンチは、周りの風景をのんびり眺められるように、設置されているわけでもありません。

しかもベンチの座面には、鳩の餌の入った器が三つ!

どうりで鳩たちが、我が物顔でこのベンチを占有しているはずです。

きっと黒壁のお宅の方が、鳩たちのためにこんな優雅なベンチを設置され、地べたに餌を撒き散らかさず、ちゃんと餌箱までご用意になっているのでしょう。

公園での鳩の餌遣りなどは問題視されますが、この私有地であればだれにも迷惑を掛けぬ、鳩たちのサンクチュアリなのかも知れません。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 69」

今日の「天職人」は、岐阜県加子母村の「木地師(きじし)」。

山の麓で水車が廻る ゴトゴトゴットンゴットンと     木曽越峠に紅挿せば 加子母の短い秋が往く        轆轤挽くたび大鋸粉(おがこ)散り 秋の陽浴びて風に舞う 老父の周りでキラキラと 木地師の里の昼下がり

岐阜県加子母村の大蔵工芸所、三代目木地師の大蔵光一さんを訪ねた。

写真は参考

「もうここらぁの木地屋は、俺んとこしか残っとらん。永く続いたってことは、始終貧乏背負(しょ)いきりでおるだけやて」。掌の大鋸粉を払い落としながら、老木地師がつぶやいた。

近江を発祥とする木地師の大蔵一族は、江戸末期豊かな森を求めこの地へ入植した。最盛期の明治初頭には、七軒の木地屋がひしめき、四基の水車で轆轤が廻っていたと言う。

光一さんは見よう見真似で木工を始め、十歳を過ぎる頃には何でも出来る程の腕前に。「遊び道具の独楽やヨーヨー、それにジャンジャン車(滑車)は、お手のもんやった」。

戦時中は軍の食器作りに追われ、戦後は土木作業に従事しながら夜学へ。その後家業を手伝う傍ら、名古屋にあった親類の木地屋へも出向き、掛け持ちで轆轤を挽いた。しかし如何に若いとは言え過労が祟り、ついに半年間の闘病生活へ。

「床の中で閃いたんやて」。それは熟練の木地師でも、一日十枚がやっとと言われた菊花鉢を、軽々百枚も仕上げる夢の機械だった。その名も「木工用彫刻機」。仕組みは、養蚕用の蚕の棚を利用し、自転車の車輪に斧(よき)と呼ぶ小型の斧を取り付けたものだ。試行錯誤の末、昭和48(1973)年に特許を取得。「この機械は、本当にようけ儲けさせてくれた」。これまでに七十万枚ほど製造されたヒット商品で、今も祝言の引き出物として欠かせないとか。

写真は参考

昭和36(1961)年、見合いで妻千賀子さんと結ばれ、一男一女に恵まれた。

「昔の木地屋は、一所の木を伐りつくすと、別の森へ材を求め移り住んだもんや」。しかし流通網が整備された現代では、森を流離う必要もなくなった。「でも所詮人好しでのう、旨い汁はみんな問屋や一流百貨店に持ってかれちまって・・・。本当は子供に継がせたくなかったんや」。光一さんは陽が差し込む工場の片隅で、黙々と一人轆轤を挽く四代目の満さんに目を向けた。満さんは高校を出るとすぐ、父と共に轆轤を挽いた。「カエルの子はカエルやて」。光一さんがやさしく笑った。

写真は参考

親の心子知らず。されど子は、親を映す鏡。木地の正目を、活かすも殺すも木地師の腕前一つ。損な性分の人好し一家は、四代に渡り加子母の里にしっかりと根を張り続ける。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 68」

今日の「天職人」は、三重県大王崎の「灯台守」。

夕陽浮かべた内海(うちうみ)に 出船入船行き交う汽笛  岬の頂(いただき)入り江の番人 沖を目掛けて灯を放つ  異国流離う旅も終(つい) 瞼の向うに島影滲む      君待つ祖国の入り江では 岬の灯りが我を手招く

三重県鳥羽市海上保安部に、平成の灯台守、小林英則さんを訪ねた。

「子供の頃、アメリカのテレビドラマ『わんぱくフリッパー』が大好きでした。それでコースト・ガード(沿岸警備)の仕事に憧れるようになって」。英則さんは窓から鳥羽湾を眺め、少年のように目を輝かせた。差し出された名刺には、鳥羽海上保安部航行援助センター、主任航行援助管理官とある。

三重県大王崎の灯台守は七名。二十四時間交代制で、無線監視・気象観測・灯台の維持管理に追われる。

英則さんは愛知県額田町生まれ。地元の水産高校の無線通信科から専攻科を経て、昭和48(1973)年に入庁。直ぐに大王崎灯台の航路標識事務所に無線技士として配属された。「私らの職場は、何処まで行っても周りは海しかありません。おまけに宿舎は、灯台の目と鼻の先。木造の古い建物で、船虫や百足に悩まされたもんです」。青春真っ盛りの四年間を、英則さんはここで過ごした。「賑やかな都会より、ここらの方が・・・。地元の子供らと釣りしたり、真っ青な海に潜ったりしとった方が楽しかった」。

大王崎での暮らしを終え、名古屋の第四管区海上保安部へと異動。土建担当と言われる、灯台や宿舎の建設を担当する部署だった。

無線屋とは全く畑違いの職務。夜学に通い建築士の資格を取得した。

翌年、友人が仲を取り持ち、年上の女房と所帯を構えた。若干二十五歳の晴れ姿。後は男の子が生まれ、イルカを手懐けさえすりゃ、いつか夢見た「わんぱくフリッパー」を地で行くはずだった。

しかし現実はそれほど甘くはない。二人の男子には恵まれたものの、全国各地を転々とする運命に。まさに昭和32(1957)年の名画「喜びも哀しみも幾年月」でお馴染みである。

その後、北九州の関門海峡を守る七管本部へ。そして再び四管本部から本庁勤務を経て、第二の故郷とも言うべき、大王崎灯台に平成13(2001)年着任。

「ただただ女房に感謝です。何処へ転勤になろうと、家族一緒でした。だから腰を落ち着けて仕事が出来た。灯台は、沖を行く船にとって、海の派出所ですから」。勤続三十年の表彰を受けた平成の灯台守は、踵を打ち鳴らし鮮やかに敬礼。ぼくもぎこちなく答礼を返した。

中部経済の要、伊良湖水道航路を往く船の無事を祈り、今日も大王崎灯台へと向かう。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールいただければ幸です。

「天職一芸~あの日のPoem 67」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市の「紙漉き簾編師(すあみし)」。

窓辺に微かな瀬音の調べ 板取川を夏が流れる       矢坪ヶ岳が紅く染まれば 蕨生(わらび)の里も秋の装い  裸電球手元を照らす 簾編し老婆の窓辺から        秋の音奏でる虫達が 冬も近いと告げて鳴く

岐阜県美濃市に簾編師、古田あやめさんを訪ねた。

写真は参考

「私の嫁入り行列は、たったの三~四歩やったんやて」。国内有数の美濃和紙の里、蕨生。土間を上がった客間の中央には、簾を編む木製の台がデーンと据えられている。あやめさんは背筋を伸ばし仏間を振り返り、夫の遺影を眺めながらつぶやいた。

あやめさんは大正14(1925)年、隣の家に生まれ、娘時代は紙漉きに明け暮れた。やがて戦況が苦境に立たされた日本軍は、丈夫な美濃和紙に蒟蒻糊を引いた風船爆弾に一縷の望みを託した。愚かしい末路だ。それを敵地のアメリカ本土に向け、偏西風に託した。当時あやめさんは何も知らず、気球紙判の紙漉きに追われたと言う。

フリー百科事典「ウィキペディア」より引用

戦後昭和24(1949)年、姉の口添えで実家のすぐ隣、一歳年上の故要三さんの元へと嫁いだ。あやめさんは祝言の余韻もそのままに、家業の簾編に明け暮れた。

写真は参考

紙漉きの簾とは、漉き舟の桁に乗せる竹籤(たけひご)で編んだ簾。美濃和紙用の簾の幅は、三尺三寸五分(約101.5センチ)。竹籤の直径は0.5ミリ以下で、節から節までの約30センチ程度。従って籤と籤を繋ぎ合わせて三尺の長さに仕立てる。つまり繋ぎ目の籤をさらに半分に割き、二千本の竹籤を特別に紡いだ腰の強い絹糸で、約一週間かけ丁寧に編み込むのだ。「籤は丈夫やで、五十年経っても何ともない。漉いた後にちゃんと水洗いして乾かしとけば、もせる(湿気でボソボソになる)こともないんやて」。

写真は参考

四六時中夫と共に、昼間は川の瀬音と鳥の歌声に耳を傾ける。陽が暮れれば裸電球を挟み、向かい合わせに黙々と簾玉(すだま/絹糸を張る錘)を繰る。「子供の頃から細かい根気のいる仕事が好きやったでな。幸せなこっちゃて」。二人の息子たちは蕨生から巣立ち、里で暮らす夫婦にも老いが忍び寄った。

平成6(1994)年、東京で会社勤めをしていた女性が、何か手に職を付けたいと訪れた。彼女は近くの空き家に住み、貯金で細々と食い繋ぎながら簾編を学んだ。「もうあの娘は、立派な跡継ぎやて」。あやめさんが太鼓判を押した。

それから三年。要三さんは跡取りの成長をその目に焼き付け、静かに息を引き取った。「年取ってから、娘でも出来た気でおったんやろ。あんでも若かりし頃は、ええ男やったんやて」。

あやめさんはポツリとつぶやき、先祖代々受け継がれる簾玉を、鮮やかにその指先で繰り続けた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸です。

「天職一芸~あの日のPoem 66」

今日の「天職人」は、愛知県西枇杷島町の「粕漬職人」。

祖母の倹しい食卓は いつもの煮物とお漬物       パリポリパリポリ音立てて お茶漬けスズッと一啜り   祖母の齢に近付く度に 倹しいお膳がご馳走に      パリポリパリポリ音立てりゃ 旬を彩る香の華(はな)咲く

愛知県西枇杷島町で明治2(1869)年創業の、尾張屋五代目の太田隆夫さんを訪ねた。

「毎年母の日が来るのが、一番嫌でな。何で俺だけ白いカーネーションなんやって」。隆生さんは遠い日を振り返った。

昭和19(1944)年、三歳の隆夫さんを遺し、父清六は中国で戦死。まるで夫の後を追うように、隆夫さんの小学校入学前、母昌子も病に冒され還らぬ人に。「父の記憶なんてありませんわ。唯一母との写真がたったの一枚」。出生からわずか六年で不幸の渦中に。隆生さんの祖父母は、誕生前に既に他界。よって明治気質の曾祖母に育てられた。

大学を出ると先輩職人に付き、修業を開始。「私、酒呑めへんのですわ。でも酒粕の匂いがプンプンする蔵の中に、一日おっても全然酔わんで不思議なもんや」。

昭和43(1968)年、遠縁に当たる歯科医の娘、富子さんが嫁入り。「身寄りのない私を案じ、お見合い写真がようけ持ち込まれとったわ。そんな頃、歯の治療してもらっとる時に、コレの親父である先生に相談したら『そんなもんより、家の娘の方がええに決まっとる』と脅されて」。しかし本心は、富子さんの顔見たさで、わざわざ東区までせっせと歯の治療に出掛けていたほど。

尾張に唯一、昔ながらの伝統製法が受け継がれる守口漬けは、真冬の塩漬けに始まり、一番粕から三番粕へと。酒粕、味醂粕、塩、砂糖で漬け込まれ、徐々に塩分を抜き去り、酒粕や味醂粕の旨味を封じ込める。足掛け三年の歳月が惜しみなく注ぎ込まれ、芳醇な香りを漂わせ、尾張屋と銘打たれた化粧樽に、真心を添え詰め込まれる。

長男光則さんは五年前(平成十五年九月三十日時点の新聞掲載日より五年前の平成十年)、東京の就職先から妻を伴い後継修業のため帰郷。全てが順風満帆に見えた二年後の九月。東海豪雨が一帯を襲った。工場は全滅。「味噌糞一緒や。町の中を樽が流れ出し、冷蔵庫はプカプカ浮いとるし」。何もかもが失われ、思わず廃業の二文字が脳裏を過った。しかしその二日後、初孫が産声を!「もう一度、家族皆で力を合わせて頑張ろう」。初々しい父親となつたばかりの光則さんの言葉には、六代目としての不屈の決意が宿っていた。そして末の弟も加わり、尾張屋復興に向け後始末に奔走した。

親の温もりも知らず、面影だけを暖簾に重ね、店を守り抜いた粕漬職人は、水害の災いさえも、新たな命の誕生で福と転じ、家族の絆をより強固に紙縒(こよ)り上げた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「花筏」

ぼくの家の周りの桜は、ほぼ8分咲から満開に近いものもあります。ですから既に、桜の木の周辺には早咲きの花びらが散り初め、淡いピンク色に染まり始めています。

桜は本当に美しいものですねぇ。また同時に、どことなく儚げで、遣り切れぬ切なさを感じるものでもあります。

何千年も昔の方々の眼にも、きっとそんな風に映っていたのではないでしょうか?

桜の季節になると、ぼくはついつい命の尊さを感じでしまいます。

僅かばかりの期間、人々の眼を愉しませ、どんなに愛でられていたとしても、やがて花びらは悉く風に煽られ散り行く定め。

花びらが散ってしまった後の桜は、そこに桜の木があったことも、忙しい現代人には忘れ去られてしまっているようにも思えます。

しかし桜は、全ての花びらが散ってしまい、誰にも見向きもされなくとも、来年の開花に向けてひっそりと命を繋いでいるのです。

そう思うと、桜の幹を取り囲むように、花びらが散って敷き詰められている姿に感動すら覚えます。

特に水辺の桜は、水面に花びらを浮かべ、現生と前世や来世を行きつ戻りつしながら、語らっているような気にさせられるものです。

今日お聴きいただく「花筏」は、高遠城址のお堀に浮かんだ花筏を見た時に、仮に花筏が前世と繋がる架け橋だったとしたら、せめてもう一度、母に逢うことが出来ぬものかとそう感じ、一気に作った作品です。

まずは弾き語りでお聴きください。「花筏」です。

「花筏」

詩・曲・唄/オカダミノル

桜散り初めし 朧月の宵 向こう岸から あなたの声

まぼろし泡沫 二度ない逢瀬と 知っているけど 愛しくて

 花筏 せめて一度 あの人の 元へと

  渡りたい その胸の中へ この顔 埋めて

盛り儚げし 美し桜も 咲けば散るのが 運命めなら

散りて惜しまれる 花筏のよに 水面染めしや 春の華

 花筏 もう一度だけ あの人に 逢わせてよ

 願えども 叶うはずもない 事だと 知りながら

 花筏 せめて一度 あの人の 元へと 渡りたい

 その胸の中へ この顔 埋めて

続いては、CDに収録されている「花筏」をお聴きください。

皆様もお近くで「花筏」がご覧になれるといいですねぇ。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「四月馬鹿!」。小学生の半ば頃だったでしょうか。四月馬鹿、つまりエイプリルフールを初めて知ったのは。近所に住むお調子者のA君が、わざわざわが家まで走ってやって来たのです。そして何を言い出すかと思えば、「お前少年漫画雑誌の懸賞に応募しただろう!どうもお前が当選したみたいだぞ!だって雑誌の当選者発表欄に、お前の名前が書いてあったって誰かが言っとったらしい!今から本屋へ付いて行ってやるで、お前お母ちゃんに言って雑誌代貰って来いよ」と。その懸賞とは、当時の男坊主共垂涎の玩具、サンダーバード2号のプラモデルだったのです。それは大変だとばかりに、お母ちゃんを拝み倒して雑誌代を手に入れ、A君と本屋へ。大急ぎで件の雑誌を手に入れ、巻末の当選者発表欄の小さな文字を目で追うも、どこにもぼくの名前なんぞありゃしない。「A君、どこにもぼくの名前なんて書いてないじゃないか!」とぼく。するとA君は、「♪引っ掛かった引っ掛かった♪四月馬鹿が引っ掛かった♪」と小躍りしながら囃し立てるじゃないですか!よくよく理由を尋ねると、四月一日だけは、公然と嘘をついても許されると。何も知らなかったぼくは、ただただポカーンとしていたと思います。そして結局、買ったばかりの少年雑誌まで、「引っ掛かったお前が悪いんだから」と、妙ちくりんな言い訳を取り繕われ、新刊の雑誌をA君に先に貸すことになり踏んだり蹴ったり!訳も分からず悔しかったものです。それ以来、来年こそは四月馬鹿で騙す方に回ってやろうと思うのですが、ちゃんと前日まではどんな嘘をつくかまで決めてはいるものの、四月一日当日の朝になるとすっかり忘れ果て、その繰り返しのまま62歳の現在に至ると言う、何とも不甲斐ない事この上なしです。皆様は四月馬鹿で誰かに嘘をついた方ですか?それともぼくのようにまんまと一杯食わされた方だったでしょうか?

今回はそんな、『四月馬鹿!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策の先週の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ヒントは、お菓子が使ってあります!

さあ、頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 65」

今日の「天職人」は、岐阜県安八町の「町火消し」。

火の用心マッチ一本火事の元 火消し半纏引き摺るように 声を張り上げ拍子木二つ 父との夜警が小さな誇り    火の用心マッチ一本火事の元 粋な藍染め刺子の半纏   背中に大きく染め抜いた 火消し男の心意気

岐阜県安八町の町火消し、坂重孝さんを訪ねた。

「本当は消防士になりたかったんやけど、長男やったで」。重孝さんは物静かに語り出した。

「ちょ~っと待ったぁ!」事前の調べによれば、泣く子も黙る元カミナリ族「貴婦人」の創立メンバーだったと。「こ、こ、こんな筈じゃあ・・・」。

重孝さんは撚糸業と農業を営む家に、やっと誕生した跡取りだった。

高校を出ると消防士の夢を断念し家業へ。しかし友人たちの誘いで仕事も手に着かず。見かねた父から「他所の冷や飯でも喰うて来い」と、放り出された。元々車好きだった重孝さんは、近くのガソリンスタンドに勤務。自然に車好きの仲間が集まった。

「たまたま同級生の一人が『貴婦人』って書いたステッカーを作って、仲間三~四人と面白がって車に貼ったんやて」。するとそのステッカーだけが人から人へと渡り歩き、気が付いた時には岐阜で勢力を誇る本物のカミナリ族が「貴婦人」を名乗り、そのステッカーを貼っていたそうだ。それが高じて周りから、「おめえ、創立メンバーやったんやて」と囃し立てられる始末。

重孝さんは、安八町第三分団の分団長を務め、今年三月(平成十五年九月九日時点)末で引退。通常三年の任期にも関わらず、皆に推されて延べ十年間、火消し半纏を羽織り誰より先に火事場へと向かった。

写真は参考

まず火事の一報が入ると、町役場がサイレンを鳴らす。しかし重孝さんの工場では、撚糸のモーター音に掻き消されてしまう。重孝さんは工場内に、無線を設置し消防本部の一報に神経を尖らせた。

いざ町内で出火となれば、サイレンを響かせ火事場へ急行。一秒たりと無駄にせぬよう、ヘルメットも火消し半纏も途中で身に着ける。町火消したちの顔が強張る一瞬だ。何はともあれ火元近くの水利に陣取り、襲い掛かる火の手に挑む。しかし装備も満足ではない町火消したちには、燃え盛る炎の中で取り残された人を、救出する術など無い。専門の訓練を積み、最新の防火服を纏ったプロの消防士の到着を待ち、全てを委ねる他はない。「だで俺らに出来る事は、一秒でも早よ火事場へ行って水出すことなんやて」。消防士の夢を断念し十四年。念願の消防団入りを果たした。「早よ順番が廻ってこんかなって、そればっか思っとったんやて」。

写真は参考

郷土を守る町火消し。金や名誉のためではない。ただ愛する郷土と家族を守るため。火消し半纏たった一枚で、敢えて危険に身を晒す。天晴れ!平成の町火消したち。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 64」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「紺屋(こうや)」。

学園祭のバザーの掛け声 君の声だけ聞き分けられた   ささいな君の仕草にも ぼくの心は忽ち揺らいだ     秋の夜焦がす月になりたい この地球(ほし)が君であるなら                           例え闇夜にまぎれても ぼくの灯りで君を染めたい

三重県松阪市の京新染工所、九代目紺屋の上村徳三さんを訪ねた。

写真は参考

「藍は繊細な女子(おなご)のような生き物やでなぁ。とにかく手がかかるんさ」。徳三さんが藍染めの暖簾を見上げた。

京新染工所は、天明元(1781)年の創業。徳三さんは尋常高等小学校を上がると、同郷出身の社長を頼りに一人上京した。「月給十円。店童として採用する」と告げられ、社長宅で書生暮らしを開始。五年後に帰郷し、家業の修業を始めるものの、直ぐに召集令状が舞い込んだ。

終戦から三ヵ月後、毛布と煙草の誉(ほまれ)を払い下げられ復員。

「紺屋の仕事は、一生かかって、一生勉強やさ」。火壺を中心に四ツ目に藍甕が作業場の土間の地中に埋め込まれ、火壺に点火して藍を発酵させる。気難しい藍のお守は、常に苛性ソーダと石灰を入れ、攪拌しながらアルカリ性を保たねばならない。

写真は参考

一方印染(しるしぞめ)の決め手は糊炊き。糊を小さく切って、焦がさぬよう十分に熱を加える。「糊置き(印の白抜きの部分に糊を引く)して泣く(滲む)ようではあかん」。糊の出来不出来が、染めを左右すると言う。目分量を頼りに、煮立てた糊に仕上げの米糠を混ぜ、舌で舐めて糊の具合を吟味する。「今しここらで染屋は四軒。糊仕事はもう二軒だけやさ」。

藍草は蓼科(たでか)の蓼藍と呼ばれる植物で、阿波(徳島県)の特産。「藍染は、今でこそ高級品。せやけど元々は下衆(げす)な商売やった。年に何度か、阿波の国から集金人が来る度、親父はよう隠れよった」。愛甕の維持費に窮する割に、庶民相手の普段着染めでは見入りも細いと、徳三さんは卑下するようにつぶやいた。

京新染工所に料金表などない。「夫婦でその日を食べられ、わずかばかりの熱燗でもあればそそれでええ」。一日当たりの夫婦の生活費に、請け負った日数分。これだけが染め代だ。材料代など、細かな事は一向にお構いなし。

紺屋は、昔から呉服屋の主を「旦那」と呼び、ひたすら崇めた。しかしその信頼関係も、時代と共に崩壊の憂き目に。昨今の不況の余波か、半月以上も費やした染め代もそのままに、「旦那」と慕った大店も倒産。半月分の夫婦の夕餉と熱燗は、不渡り手形の紙屑と化した。

「まあせやけど、逆に自分がせんで良かったと思わなしゃあないさ」。上がり框(がまち)に腰掛け、紺屋の老職人は冷たくなった茶を啜った。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。