「天職一芸~あの日のPoem 66」

今日の「天職人」は、愛知県西枇杷島町の「粕漬職人」。

祖母の倹しい食卓は いつもの煮物とお漬物       パリポリパリポリ音立てて お茶漬けスズッと一啜り   祖母の齢に近付く度に 倹しいお膳がご馳走に      パリポリパリポリ音立てりゃ 旬を彩る香の華(はな)咲く

愛知県西枇杷島町で明治2(1869)年創業の、尾張屋五代目の太田隆夫さんを訪ねた。

「毎年母の日が来るのが、一番嫌でな。何で俺だけ白いカーネーションなんやって」。隆生さんは遠い日を振り返った。

昭和19(1944)年、三歳の隆夫さんを遺し、父清六は中国で戦死。まるで夫の後を追うように、隆夫さんの小学校入学前、母昌子も病に冒され還らぬ人に。「父の記憶なんてありませんわ。唯一母との写真がたったの一枚」。出生からわずか六年で不幸の渦中に。隆生さんの祖父母は、誕生前に既に他界。よって明治気質の曾祖母に育てられた。

大学を出ると先輩職人に付き、修業を開始。「私、酒呑めへんのですわ。でも酒粕の匂いがプンプンする蔵の中に、一日おっても全然酔わんで不思議なもんや」。

昭和43(1968)年、遠縁に当たる歯科医の娘、富子さんが嫁入り。「身寄りのない私を案じ、お見合い写真がようけ持ち込まれとったわ。そんな頃、歯の治療してもらっとる時に、コレの親父である先生に相談したら『そんなもんより、家の娘の方がええに決まっとる』と脅されて」。しかし本心は、富子さんの顔見たさで、わざわざ東区までせっせと歯の治療に出掛けていたほど。

尾張に唯一、昔ながらの伝統製法が受け継がれる守口漬けは、真冬の塩漬けに始まり、一番粕から三番粕へと。酒粕、味醂粕、塩、砂糖で漬け込まれ、徐々に塩分を抜き去り、酒粕や味醂粕の旨味を封じ込める。足掛け三年の歳月が惜しみなく注ぎ込まれ、芳醇な香りを漂わせ、尾張屋と銘打たれた化粧樽に、真心を添え詰め込まれる。

長男光則さんは五年前(平成十五年九月三十日時点の新聞掲載日より五年前の平成十年)、東京の就職先から妻を伴い後継修業のため帰郷。全てが順風満帆に見えた二年後の九月。東海豪雨が一帯を襲った。工場は全滅。「味噌糞一緒や。町の中を樽が流れ出し、冷蔵庫はプカプカ浮いとるし」。何もかもが失われ、思わず廃業の二文字が脳裏を過った。しかしその二日後、初孫が産声を!「もう一度、家族皆で力を合わせて頑張ろう」。初々しい父親となつたばかりの光則さんの言葉には、六代目としての不屈の決意が宿っていた。そして末の弟も加わり、尾張屋復興に向け後始末に奔走した。

親の温もりも知らず、面影だけを暖簾に重ね、店を守り抜いた粕漬職人は、水害の災いさえも、新たな命の誕生で福と転じ、家族の絆をより強固に紙縒(こよ)り上げた。

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「花筏」

ぼくの家の周りの桜は、ほぼ8分咲から満開に近いものもあります。ですから既に、桜の木の周辺には早咲きの花びらが散り初め、淡いピンク色に染まり始めています。

桜は本当に美しいものですねぇ。また同時に、どことなく儚げで、遣り切れぬ切なさを感じるものでもあります。

何千年も昔の方々の眼にも、きっとそんな風に映っていたのではないでしょうか?

桜の季節になると、ぼくはついつい命の尊さを感じでしまいます。

僅かばかりの期間、人々の眼を愉しませ、どんなに愛でられていたとしても、やがて花びらは悉く風に煽られ散り行く定め。

花びらが散ってしまった後の桜は、そこに桜の木があったことも、忙しい現代人には忘れ去られてしまっているようにも思えます。

しかし桜は、全ての花びらが散ってしまい、誰にも見向きもされなくとも、来年の開花に向けてひっそりと命を繋いでいるのです。

そう思うと、桜の幹を取り囲むように、花びらが散って敷き詰められている姿に感動すら覚えます。

特に水辺の桜は、水面に花びらを浮かべ、現生と前世や来世を行きつ戻りつしながら、語らっているような気にさせられるものです。

今日お聴きいただく「花筏」は、高遠城址のお堀に浮かんだ花筏を見た時に、仮に花筏が前世と繋がる架け橋だったとしたら、せめてもう一度、母に逢うことが出来ぬものかとそう感じ、一気に作った作品です。

まずは弾き語りでお聴きください。「花筏」です。

「花筏」

詩・曲・唄/オカダミノル

桜散り初めし 朧月の宵 向こう岸から あなたの声

まぼろし泡沫 二度ない逢瀬と 知っているけど 愛しくて

 花筏 せめて一度 あの人の 元へと

  渡りたい その胸の中へ この顔 埋めて

盛り儚げし 美し桜も 咲けば散るのが 運命めなら

散りて惜しまれる 花筏のよに 水面染めしや 春の華

 花筏 もう一度だけ あの人に 逢わせてよ

 願えども 叶うはずもない 事だと 知りながら

 花筏 せめて一度 あの人の 元へと 渡りたい

 その胸の中へ この顔 埋めて

続いては、CDに収録されている「花筏」をお聴きください。

皆様もお近くで「花筏」がご覧になれるといいですねぇ。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「四月馬鹿!」。小学生の半ば頃だったでしょうか。四月馬鹿、つまりエイプリルフールを初めて知ったのは。近所に住むお調子者のA君が、わざわざわが家まで走ってやって来たのです。そして何を言い出すかと思えば、「お前少年漫画雑誌の懸賞に応募しただろう!どうもお前が当選したみたいだぞ!だって雑誌の当選者発表欄に、お前の名前が書いてあったって誰かが言っとったらしい!今から本屋へ付いて行ってやるで、お前お母ちゃんに言って雑誌代貰って来いよ」と。その懸賞とは、当時の男坊主共垂涎の玩具、サンダーバード2号のプラモデルだったのです。それは大変だとばかりに、お母ちゃんを拝み倒して雑誌代を手に入れ、A君と本屋へ。大急ぎで件の雑誌を手に入れ、巻末の当選者発表欄の小さな文字を目で追うも、どこにもぼくの名前なんぞありゃしない。「A君、どこにもぼくの名前なんて書いてないじゃないか!」とぼく。するとA君は、「♪引っ掛かった引っ掛かった♪四月馬鹿が引っ掛かった♪」と小躍りしながら囃し立てるじゃないですか!よくよく理由を尋ねると、四月一日だけは、公然と嘘をついても許されると。何も知らなかったぼくは、ただただポカーンとしていたと思います。そして結局、買ったばかりの少年雑誌まで、「引っ掛かったお前が悪いんだから」と、妙ちくりんな言い訳を取り繕われ、新刊の雑誌をA君に先に貸すことになり踏んだり蹴ったり!訳も分からず悔しかったものです。それ以来、来年こそは四月馬鹿で騙す方に回ってやろうと思うのですが、ちゃんと前日まではどんな嘘をつくかまで決めてはいるものの、四月一日当日の朝になるとすっかり忘れ果て、その繰り返しのまま62歳の現在に至ると言う、何とも不甲斐ない事この上なしです。皆様は四月馬鹿で誰かに嘘をついた方ですか?それともぼくのようにまんまと一杯食わされた方だったでしょうか?

今回はそんな、『四月馬鹿!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策の先週の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ヒントは、お菓子が使ってあります!

さあ、頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 65」

今日の「天職人」は、岐阜県安八町の「町火消し」。

火の用心マッチ一本火事の元 火消し半纏引き摺るように 声を張り上げ拍子木二つ 父との夜警が小さな誇り    火の用心マッチ一本火事の元 粋な藍染め刺子の半纏   背中に大きく染め抜いた 火消し男の心意気

岐阜県安八町の町火消し、坂重孝さんを訪ねた。

「本当は消防士になりたかったんやけど、長男やったで」。重孝さんは物静かに語り出した。

「ちょ~っと待ったぁ!」事前の調べによれば、泣く子も黙る元カミナリ族「貴婦人」の創立メンバーだったと。「こ、こ、こんな筈じゃあ・・・」。

重孝さんは撚糸業と農業を営む家に、やっと誕生した跡取りだった。

高校を出ると消防士の夢を断念し家業へ。しかし友人たちの誘いで仕事も手に着かず。見かねた父から「他所の冷や飯でも喰うて来い」と、放り出された。元々車好きだった重孝さんは、近くのガソリンスタンドに勤務。自然に車好きの仲間が集まった。

「たまたま同級生の一人が『貴婦人』って書いたステッカーを作って、仲間三~四人と面白がって車に貼ったんやて」。するとそのステッカーだけが人から人へと渡り歩き、気が付いた時には岐阜で勢力を誇る本物のカミナリ族が「貴婦人」を名乗り、そのステッカーを貼っていたそうだ。それが高じて周りから、「おめえ、創立メンバーやったんやて」と囃し立てられる始末。

重孝さんは、安八町第三分団の分団長を務め、今年三月(平成十五年九月九日時点)末で引退。通常三年の任期にも関わらず、皆に推されて延べ十年間、火消し半纏を羽織り誰より先に火事場へと向かった。

写真は参考

まず火事の一報が入ると、町役場がサイレンを鳴らす。しかし重孝さんの工場では、撚糸のモーター音に掻き消されてしまう。重孝さんは工場内に、無線を設置し消防本部の一報に神経を尖らせた。

いざ町内で出火となれば、サイレンを響かせ火事場へ急行。一秒たりと無駄にせぬよう、ヘルメットも火消し半纏も途中で身に着ける。町火消したちの顔が強張る一瞬だ。何はともあれ火元近くの水利に陣取り、襲い掛かる火の手に挑む。しかし装備も満足ではない町火消したちには、燃え盛る炎の中で取り残された人を、救出する術など無い。専門の訓練を積み、最新の防火服を纏ったプロの消防士の到着を待ち、全てを委ねる他はない。「だで俺らに出来る事は、一秒でも早よ火事場へ行って水出すことなんやて」。消防士の夢を断念し十四年。念願の消防団入りを果たした。「早よ順番が廻ってこんかなって、そればっか思っとったんやて」。

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郷土を守る町火消し。金や名誉のためではない。ただ愛する郷土と家族を守るため。火消し半纏たった一枚で、敢えて危険に身を晒す。天晴れ!平成の町火消したち。

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「天職一芸~あの日のPoem 64」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「紺屋(こうや)」。

学園祭のバザーの掛け声 君の声だけ聞き分けられた   ささいな君の仕草にも ぼくの心は忽ち揺らいだ     秋の夜焦がす月になりたい この地球(ほし)が君であるなら                           例え闇夜にまぎれても ぼくの灯りで君を染めたい

三重県松阪市の京新染工所、九代目紺屋の上村徳三さんを訪ねた。

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「藍は繊細な女子(おなご)のような生き物やでなぁ。とにかく手がかかるんさ」。徳三さんが藍染めの暖簾を見上げた。

京新染工所は、天明元(1781)年の創業。徳三さんは尋常高等小学校を上がると、同郷出身の社長を頼りに一人上京した。「月給十円。店童として採用する」と告げられ、社長宅で書生暮らしを開始。五年後に帰郷し、家業の修業を始めるものの、直ぐに召集令状が舞い込んだ。

終戦から三ヵ月後、毛布と煙草の誉(ほまれ)を払い下げられ復員。

「紺屋の仕事は、一生かかって、一生勉強やさ」。火壺を中心に四ツ目に藍甕が作業場の土間の地中に埋め込まれ、火壺に点火して藍を発酵させる。気難しい藍のお守は、常に苛性ソーダと石灰を入れ、攪拌しながらアルカリ性を保たねばならない。

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一方印染(しるしぞめ)の決め手は糊炊き。糊を小さく切って、焦がさぬよう十分に熱を加える。「糊置き(印の白抜きの部分に糊を引く)して泣く(滲む)ようではあかん」。糊の出来不出来が、染めを左右すると言う。目分量を頼りに、煮立てた糊に仕上げの米糠を混ぜ、舌で舐めて糊の具合を吟味する。「今しここらで染屋は四軒。糊仕事はもう二軒だけやさ」。

藍草は蓼科(たでか)の蓼藍と呼ばれる植物で、阿波(徳島県)の特産。「藍染は、今でこそ高級品。せやけど元々は下衆(げす)な商売やった。年に何度か、阿波の国から集金人が来る度、親父はよう隠れよった」。愛甕の維持費に窮する割に、庶民相手の普段着染めでは見入りも細いと、徳三さんは卑下するようにつぶやいた。

京新染工所に料金表などない。「夫婦でその日を食べられ、わずかばかりの熱燗でもあればそそれでええ」。一日当たりの夫婦の生活費に、請け負った日数分。これだけが染め代だ。材料代など、細かな事は一向にお構いなし。

紺屋は、昔から呉服屋の主を「旦那」と呼び、ひたすら崇めた。しかしその信頼関係も、時代と共に崩壊の憂き目に。昨今の不況の余波か、半月以上も費やした染め代もそのままに、「旦那」と慕った大店も倒産。半月分の夫婦の夕餉と熱燗は、不渡り手形の紙屑と化した。

「まあせやけど、逆に自分がせんで良かったと思わなしゃあないさ」。上がり框(がまち)に腰掛け、紺屋の老職人は冷たくなった茶を啜った。

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先週の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「残り物クッキング~春の彩和風ミモザパスタ」

皆様からも写真を見て、様々にご想像を膨らませて、コメントをいただきました。見事に正解に近い方もお見えになりビックリ!

確かに写真だけでは、その真実を伝えきれるものでは無いと、改めて感じたものです。ましてや食べる物となれば、視覚から得られる限られた情報では、過去の実体験の記憶の中から、その画像に近い物を検索し、それに近い食感や匂いの物を想像するのがやっとです。やっぱり食べ物は、五感をフルに使って感じなければ、その真実は確かめられないものかも知れませんね。

そこで前回の「残り物クッキングクイズ」の正解です。

正解は、「春の彩和風ミモザパスタ」でした。

実は保存庫の片隅にあった、賞味期限切れの「アサリの時雨煮」真空パック詰めを何とかせねばと編みい出したる作品です。

作り方は簡単なものです。

まず固ゆでのゆで卵を2個作り、黄身と白身を分け、白身はざく切りにしておきます。

次に真空パック入りのアサリの時雨煮をそのまま湯煎します。

続いてフライパンでたっぷり目のバターを溶かし、茹で上げてよく水切りしたパスタと、ざく切りにした白身を加えて、軽くブラックペッパーを振り、醤油と酒少々で炒めて皿に盛り付けます。

そしてその上から、湯煎したアサリの時雨煮を添え、最後に卵の黄身をこしきで粉々にしながら振り掛け、山椒の葉を彩で添えれば完成。

黄身をこす、こしきなぁ~んて洒落たものなどありませんから、ぼくは味噌をこすステンレス製の網目を代用しました。また、山椒の葉は、スーパーで見掛け思わず購入してしまった、鉢植えのちっちゃな山椒の木を育てており、その新芽をちょいと摘まんだものです。

なかなかどうして、皆様からお寄せいただいたコメントの素材でも、パスタ代わりに使えるものがたぁ~くさんございました!ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 63」

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の「箔押(はくおし)」。

納屋の古びたランドセル 最後の時間割のまま      埃に塗れた教科書広げ 遠くに翳むあの日と出逢う    ページの隅を埋め尽くす 小さな文字の落書きは     あの娘(こ)の名前の繰り返し 栞代わりに四葉の押し花 パパッ ゴハンデシュ 妻に抱かれた娘の声       四葉の願いが現実に あの娘の笑顔も大と小

名古屋市中川区の小柳商店、二代目箔押の小柳正勝さんを訪ねた。

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久しぶりに、今生家族で共にいられることを、心底楽しんでいる一家と出逢った。輪廻転生、ソウルメイト。人間は何度も今生に於ける役柄を変え、生まれ変わるとする説が、最も身近に感じられた瞬間である。親が子を、子が親を他愛も無い事で殺める事件が相次ぐ中、命の重さを改めて感じた。「家は女房がええで。毎晩長女長男の四人、この仕事を終えて晩酌するのが一番の愉しみだぁさ」。正勝さんが煙草に火を点けた。一見、ジャズ界の重鎮、世界のナベサダを想わせる、ジーンズとTシャツの似合う還暦過ぎの職人だ。

元々初代は、段ボールの小箱製造工場として開業。「あんまり勉強が好きじゃなくってさ」。正勝さんは高校を出ると、父の工場の跡継ぎを決意。昭和35(1960)年、日米安保阻止を旗印に全学連の若者が、民主主義の存亡を懸け燃え尽きた年だった。しかしその後、国民の関心は政治から遠ざかり、物質的な豊かさに惹かれモーレツな時代へ。昭和41(1966)年、小柳商店も転換期を迎えた。手貼りの本金箔押ではなく、機械により転写する箔押。ホットスタンピングと言われる業態への転換だった。「機械を入れたものの、親父も私も箔押なんて初めて。注文受けてから、何度断ろうと思ったことか」。正勝さんはその年、同い年の恋女房和代さんを娶った。新婚生活が始まったばかりで、後戻りなど許されない。

1センチ四方に最大で30トンの圧力と熱を加え箔を転写する。凸版の受け軸を手作りで工夫し、難易度の高い箔押を続けた。

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昭和44(1969)年には長女麻子さんが誕生。翌年には、三代目を襲名する長男英司さんを授かった。

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「女房との出逢いも、酒呑み仲間の紹介。仕事も酒の仲間にどんだけ助けられたやら」。正勝さんの言葉に、箔押機の前で黙々と手先を動かす麻子さんと英司さんが、見つめ合ってこっそり笑った。事務所の入り口で来客の相手をしていた恋女房も、これまた然り。「難しい注文に悩んで『どうしよう』と闇の中を彷徨い歩いとっても始まらん。原点に戻るが一番」。平成の箔押がつぶやいた。箔押一家四人の原点は、家族の絆そのものだった。

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「天職一芸~あの日のPoem 62」

今日の「天職人」は、三重県名張市の「寫眞(しゃしん)師」。

晴れのち曇り時々豪雨 子供還りに彷徨う父を      妻といつも天気に例えた せめて父への尊厳として    褪せたアルバム広げては 縁で船漕ぐ小さな背      モノクロ写真の母が笑む 時代繰る手も夢の中

三重県名張市の「写真の川地」、五代目の川地清広さんを訪ねた。

「爺さんはハイカラな人やった。出張撮影に出掛けるんも、馬ん乗って颯爽とな。昭和二十年代後半までは、医者や髪結い、それと寫眞師くらいや。馬なんて乗れたんわ」。清広さんはコーヒーカップを傾けた。

写真の川地は、明治10(1877)年に久居市出身の川地長七により創業。

日本の国産写真の夜明けは、安政4(1857)年に遡る。長崎の舎密(せいみ)試験所にて、オランダ人軍医ポンペと長崎出身の門下生上野彦馬、そして上野の先輩に当たる津藩士堀江鍬次郎が、手製の写真と湿版写真用感光乳剤、更に現像用のコロジオン液を見よう見真似で完成させた。堀江の影響で、津藩主藤堂亮猷(とうどうたかゆき)が、当時最高級だった英国製人物写真機を購入。後に津の藩校に舎密学の講師として上野が招かれた。その頃長七は産声を上げ、十代後半の若さで写真館を開業した。

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余談ではあるが、後に上野は長崎へと戻り「上野撮影局」を開業し、勝海舟や坂本龍馬など、幕末を駆け抜けた志士たちの雄姿を、歴史の一コマとして撮り続けた。

「これがその頃の硝子湿版写真や」。

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清広さんは桐の箱を開いた。硝子の大きさは、縦十センチ、横七センチほどの手札サイズ。当時は硝子板に塗布した感光乳剤が濡れている間に撮影。肖像写真の場合、三十分ほどは動いてならず、首や頭がぶれないように托頭器(たくとうき/ヘッドレスト)を使用した。不動の姿勢を強いられた被写体たちは、まるで写真機に魂を吸い取られたかの様にグッタリだったとか。

写真は参考

硝子湿板に淡く浮かぶ、明治初期の裕福そうな家族。しかし家族の視線はいずれもバラッバラ。「昔の女性は袖に手を隠し、寫眞機に魂を抜き取られんよう、眼を合わさんだらしい。今や普通の人らがカメラの前で、堂々と肌を露わにする時代やのに」。隣で六代目を継ぐ長女美貴さんもうなづいた。

「自然の光に敵うもんはない。その光の中で生きる人々を、六代に渡ってファインダー越しに覗いて来たんやでなぁ。時代を切り取るようにな。まぁ、寫眞機持ったまま死ねたら本望や」。清広さんが穏やかな笑顔を向けた。

スタジオの中庭で、過行く夏を惜しむように、蜩が再び鳴き始めた。

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「も一つおまけに、ウォーキング雑観」

ちょっといつもより時間が遅れて、ウォーキングで足を延ばして見ました。

すると港の交差点にこんなモニュメントが!

名付けると「怒りのサンセット!」ってぇのが浮かんできました。でも別に嫌なことがあった訳でも、心がささくれ立っていた訳でもありません。

妙に水面に移る西日と、干潮で海水が引いてしまった後に浮かび上がったイカリのシチュエーションに、新型コロナで海外渡航もままならなくなってしまった事への怒りがこみあげてしまって・・・。って、さりとてぼくなんぞ、どこにも海外渡航の予定なんぞありませんが(汗)

でもとても奇麗でした!

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ウォーキング雑観」

久しぶりに聚楽園の大仏様にお逢い出来ました。

これは、ブラリ電車旅の賜物。

子供の頃、両親と潮干狩りに向かう電車の中から、この大仏様を目にしてさぞやビックリしたものでした。

当時と変わらぬお姿に、心の中でそっと手を合わせました。

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