今日の「天職人」は、愛知県常滑市の「捻りオコシ職人」。(平成22年2月3日毎日新聞掲載)
縁に腰掛けばあちゃんは 陽だまりの中舟を漕ぐ 捻りオコシの菓子鉢を 胸に抱かえて夢の中 梅の蕾が春を呼ぶ 恥じらいながら色付いて 春告げ鳥を待ち侘びた 娘時代の夢草紙
愛知県常滑市で大正元(1912)年創業の山形屋製菓舗、三代目の捩りオコシ職人の榊原昇一さんを訪ねた。

飴色の土管坂。
レンガ組の1本煙突。
ゴー、ゴー。
作業場から響く動力の音が、静かな町の空気を揺らす。
「まるで鉄工所みたいやろ」。
男は黒光りする攪拌機の前でつぶやいた。
「この機械も父親の代から使っとるで、えらい骨董品だわ。でももう、どこも作っとらんで手に入らんだ」。

昇一さんは、昭和26(1951)年に3人兄弟の長男として誕生。
中学を出ると名古屋の洋菓子専門学校に学んだ。
そして卒業と同時に、名古屋の洋菓子店で修業へ。
「とにかく家の跡継ぐのが嫌で嫌で。とは言え、何をしたいんかも分からん。でも蛙の子は、どこまで行っても蛙のまんまさ。親父とお袋みたいに、明けても暮れてもオコシ作らなかんと思うと、それが嫌でな。一旦は洋菓子志したけど、結局最後は親父と同じだわ」。
昇一さんは、プレス機で板状に熨したオコシを取り上げ、傍らで棒状のオコシを2枚重ねにして、捻りを加える娘を盗み見た。

23歳となった昭和49年、洋菓子店を辞し異業種へと飛び込んだ。
「どうしても菓子作りとかとは違う、全く別の世界が知りたくて。それで4㌧トラックで小口の荷を運ぶ仕事に」。
だが年々年老いてゆく両親が気掛かりでもあった。
昭和54年、それまで両親と共に家業に従事していた、末子の弟が病を患った。
「そん時『これが潮時か』と観念してな」。
跡目を継ぐ決心を固め、家業に入った。
「小さい頃から毎日、見飽きるほど見てきたオコシ作りやけど、見るとするとでは大違いだわ。結局3年ほど親父から仕込まれて」。

やがて同県東海市出身の有佳子さんと巡り逢い、昭和58年に結婚。
3女を授かった。
「昔は名古屋で、嫁入りの菓子撒きに使われて、秋から春までは大忙しだったわ」。
今でも地元の人々から、郷土自慢の手土産として利用され、愛され続ける庶民の銘菓だ。

「オコシは全国にあるけど、家のみたいに捻ったオコシは、ちょっと聞いたこと無いな」。昇一さんが初めて自慢げな笑顔を見せた。
捻りオコシ作りは、水飴にグラニュー糖と蜂蜜を入れ、熱して溶かす作業に始まる。
次に攪拌機にイラ(澱粉)粉と水飴を入れ、しっとりなるまで混ぜ合わせる。
そしてプレートに青海苔を敷き詰め、その上に水飴と混ぜ合わせたイラを平らに敷き、プレス機で板状に押し伸ばす。
最後は縦3㌢横14㌢程に切り落とし、青海苔の面を外側に2枚重ねにして一捻りすれば完成。

「娘がやっとる捻りでも、一端までには半年。オコシは生きとるし、手捻りだで2つと同じにはならんで」。
「親とは違う」。
水面に映る己の姿を見つめ、オタマジャクシはそう思った。
だが時が経ち、改めて水面を見れば、そこにはあの日の親の姿が。
蛙の子が蛙であれば、何よりそれが一番。
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捻ったおこし…見たことないわ〜。
でも 色合いや細さ加減が芸術的( ◠‿◠ )
“おこし” って言うと 昔お土産で買った雷おこし=ちょっぴり固め の印象があったけど 最近食べたおこしは 食べやすかったですよ。
五十代にも優しい”おこし” でした(笑)
ぼくは全くもって変な子でした。
いただき物の雷お越しや、浪花おこしにしても、湿気てグニュ~ッと回るくらいになってから食べるのが好きで、お父ちゃんやお母ちゃんがあきれていたものです。
『親とは違う』
しかし、いつしか親に似て来た自分に気付くんだよなぁ。
まったく同感です。
どんなに親とは違うと抗えど、年々親の面影が鏡の中に現れるようになるものです。
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