今日の「天職人」は、愛知県清洲市の「尾張曲げわっぱ職人」。(平成21年7月29日毎日新聞掲載)
タモを片手に蝉を追い 暑さ凌(しの)ぎに川遊び 真っ黒顔で駆け回り 腹が鳴るまで無我夢中 三時を告げる腹時計 オヤツにアイス期待して 急ぎ帰れば蒸かし芋 蒸籠(せいろ)わっぱに湯気上がる
愛知県清洲市須ヶ口で明治20(1887)年創業の伊勢安商店、三代目尾張曲げわっぱ職人の安藤安孝さんを訪ねた。

長者橋、船杁(ふないり)橋、巡礼橋。
いずれも愛知県清洲市を流れる、五条川にかかる橋の名である。
一昔前には旧美濃路に沿い、白壁の土蔵が軒を連ねた。
「わっぱ屋だけでも、昔は10軒のようあったっでなあ」。安孝さんは、人影もまばらな表通りをぼんやり眺めた。
安孝さんは昭和3(1928)年、4人兄弟の長男として誕生。
商業学校へと進学するものの、戦局悪化の影響を受け昭和19年10月に繰上げ卒業。
そのまま軍事教練を受けさせられたが、翌年8月15日に終戦。
戦争が終わると、人々は悲しみを乗り越え、復興へと歩み始めた。
安孝さんも家業に従事。
職人に付き、7年ほど下積み修業の日々が続いた。
「木刺しでわっぱに穴開けて、吉野桜の桜樺(さくらかば)で縫い合わせる力仕事ばっか。それからやっと、仕上げに底板の釘(竹釘)止めやらせてまえるようになるんだって」。

樺の裏側を鉈(なた)で削りながら、懐かしそうに笑った。
「底板の代わりに、馬の尻尾の毛で編んだ網を貼り付けりゃ、味噌漉(こ)しや裏漉し器に早や代わりだわさ。昔は馬毛の網を、手機で専門に織るおばさんたあが、よおけおったって。そんでも気い付けんと、馬毛には虫が付くでかんわ」 。

昭和29年、見合いで聖子さんと結ばれ、二男一女を授かった。
四代目も安泰かと問うと、「そんなもん、わっぱだけじゃ、もう渡世なんて出来せんって。東京オリンピックの頃がピークで、後はじり貧で下るばっかだあさ」。
わっぱ飯の弁当箱に御櫃(おひつ)、蒸し器に篩(ふる)い、そして裏漉し器に柄杓(ひしゃく)などなど。
いずれも昭和の台所に、なくてはならない道具の数々が、安孝さんの太い指先から生み出されていった。
尾張曲げわっぱは、ヒノキの大木から、わっぱの寸法に挽く事から始まる。
次に材を鉋掛けし、熱湯で板を煮、丸型に挟んで曲げ、天日で乾燥させる。

そして材の両端を絞め木(木製コンパスのような物)で固定し、木刺しで穴を開けて桜樺で縫い上げる。

最後に用途に応じ、底板や馬毛の網を取り付け、削りを入れて総仕上げへ。
わっぱは、何と言っても、そこはかとなく漂う木の香りが命。
輪に繋ぎ止める桜樺は、わっぱが水分を含んでも伸びず、弛(たる)むこともない。
「吉野桜の樺は、8月以降10月頃までじゃないと、水分含んで剥(む)けんでかんて」。
大自然の産物だけを頼りに、わっぱ職人は節くれ立った指先を揮う。
するとからくり仕掛けのように、平らな板も弧を描き、留めの桜樺は胴を飾る粋な紋様を描き出す。
だが一つも設計図は無い。
「そりゃそうだて。63年で、体が全部(ぜ~んぶ)覚えてまっとるで」。
干支一巡りを越え、未だ作業場に座す最後の老職人。
感慨深げにそっと目を瞑(つむ)った。
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オカダさん、みなさん、今月も忘れず現れました。みんな元気かなぁなんて思いながら、毎日ブログを読ませて頂いてます。
ここで、お願いです。どんな形でもいいので、たまにはオカダさんの動いている姿もブログで見たいです。あっ!オカダさん、今 おっさんの姿見てどうするの?って思ったでしょう。大丈夫!見てる方も、おっさん、おばさんだから。(お若い人には、陳謝m(_ _;)m)
これまた難しくって、厄介な(あっ、失礼)無理難題を!
でも一度トライしてみましょうか!
気長にお待ちくださいねぇ!
設計図は無い!…
後継者はいるんだろうか?
職人さんと似たような感覚や感性や想いなどを持った方が いらっしゃるといいんだけど。
見て触れて感じるあったかさ…
今の私に補充したいものばかりです(笑)
わっぱ飯って、ご飯がとっても美味しくなるから不思議ですよねぇ。
そこはかとなく木の香りがして、ますますご飯が美味しく感じられるのも。わっぱマジックってとこなんでしょうねぇ。