今日の「天職人」は、三重県勢和村の「茶屋女将」。(平成十七年十二月二十七日毎日新聞掲載)
息急(いきせき)白む峠越え ぐずる妹なだめつつ 隣の町にお遣いへ 僅かな駄賃引替えに 峠の茶屋で一休み 泣いた烏も甘酒と 餅を片手にもう笑ろた 街道一のおきん茶屋
三重県勢和村の東外れで天保三(1832)年から続く、峠の頂にあるおきん茶屋に、四代目の永井幸夫さんを訪ねた。


「家は代々女子(おなご)主人やでな」と、幸夫さんは白衣姿で笑った。
江戸の末期、初代おきん婆さんは、街道を行き交う旅人を相手に、手製の蓬餅でもてなした。
誰が名付けたか、いつしか「おきん餅」と呼ばれ、街道一の名物として今に受け継がれる。

幸夫さんは昭和四(1929)年、七人兄弟の長男として誕生。
尋常高等小学校を出た翌年、終戦を迎えた。「物資もあらせんし、百姓したり、さつまいも茹(う)でて売ったり」。
伝統のおきん餅も、戦中戦後の統制が解けるまでは、代用品を利用し細々と製造が続けられた。
昭和三十二(1957)年、従姉妹のたけさんを嫁に得た。
「父同士が兄弟やってさ、嫌々貰(もう)てな」。 幸夫さんが照れ笑い。
「今はそう言うてますがな、それは私の方でしたんさ。『電気も来とらんような所(とこ)、行きとない』言(ゆ)うて。あんな当時、十km四方に家もたったの四軒。そりゃあ寂しい所(とこ)やったんさ」。四代目女将のたけさんは、暮れ行く峠の街道を見つめた。
その後、三女一男が誕生。「電気も点かん暗がりやったで。他にやることあらへんしなぁ」。幸雄さんがまたしても照れ笑い。
昭和三十八(1926)年に念願の電気が通電し、翌年には国道四十二号線が開通。
「馬車や自転車、牛の姿が消え、土埃を上げてトラックがやって来るようんなって。駐車場がトラックの物置みたいやったんさ」。
その頃から本格的におきん餅が復刻し、昭和四十〇(1965)年代に入ると、土産物として評判を博した。
「那智勝浦へ向かう観光バスが、数珠繋ぎになるほどで、どんどん売れそめて。バスまで運んでっては、売りよったんさ」。多い日は、一日千箱が飛ぶように売れた。
江戸末期の最初のおきん餅は、『しらいと』と呼ばれた。
米粉を練って蓬を入れ、餡をつけてまぶしたもの。
それが三代目のちよ婆さんの代で『さわ餅』と呼ぶ四角いものへ。
そして現在では、大福餅の形に。
「昔から家のおきん餅は、ちょっと他所より高(たこ)てな。他所が十円なら、家は三十円ってな調子で」。それでも取材中、引っ切り無しに客が訪れる。
「今ではブラジルやアメリカへ送ったり。海外の家族に送られる方もおいでんなって」。 五代目を継ぐ良浩さんが、言葉を添えた。
良浩さんは、大阪の料亭で六年の修業を積み、幸夫さんの大病を機に家業を継いだ。

跡取りも決って円満ですねと水を向けると「それがなぁ、まだ一つ足りませんのやさ。私の跡目、五代目おきん婆さんとなる、嫁の来てがないもんやで」。
四代目おきん婆さんこと、たけ婆さんは、自慢の息子を案じながらも、『何とかなるやろ』とでも言わんばかりに、屈託無く笑った。
釣瓶落しの夕闇が迫る。
峠の茶屋から暖かな明りと、飾らぬ親子の笑い声がこぼれ来たる。
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今晩は。
・茶屋女将のお話ですね。 おきん餅が有る事知りませんでした。ブログで、知ることが、出来ました。
・(写真)昔の佇まいも今の佇まいも良いですね。 おきん餅美味しそうですね。
・お茶屋さんで、お菓子食べて見たいですね。
おきん餅!
どうか「粒あん」でありますように⤴
ひとつ気になるのが「伊勢芋」なんだぁ~?
最近お気に入り!
スーパーの焼き芋コーナーで買います。
子供の頃食べた焼き芋「ほくほく」していたけど
最近の焼き芋「ねっとり」としたのが多くて・・
けど!美味しい!
そりゃあんたは、甘けりゃそれでご馳走なんでしょ!
五代目おきん婆さんとなるお嫁さんは 来たんだろうか?
気になる〜(笑)
それにしても お店の歴史かなり古いですね。188年前から…ですよ!
女は強し!
このお店の前で どんな歴史が流れたんだろう?
やっぱり歴代の母は、ともかく強いって証でしょうねぇ!