飛騨市の「広報ひだ」6月号「飛騨びと 言の葉綴り」が掲載されました。
「広報ひだ」の『飛騨びと 言の葉綴り』がこちらの25710.pdf (city.hida.gifu.jp)
残念ながら広報ひだの本誌は、紙面のスペースに限りがあり、掲載文は抜粋版となっております。文字数制限のないweb版も勝田萌さん(古川町) – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)併せてご覧いただければなによりです。
今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

ぼくが小学校から帰ると、3時のおやつと言うわけではなく、大皿一杯に蒸し芋が山の様に積み上げられていたものです。

おそらくお母ちゃんは、縫物の内職の傍ら、時には蒸し芋がお昼ごはんだったり、お茶請けであったのかも知れません。
鹿児島出身の母は生粋の薩摩おごじょでしたから、サツマイモに滅法目が無く、年がら年中蒸し芋が卓袱台を占拠していたものでした。
ところがぼくと来たら、芋栗南京は何よりの天敵!
蒸し芋以外におやつが無った時は、それはそれは凹んだものでした。

でもたまぁ~に、同じサツマイモでも一手間も二手間もお母ちゃんがかけた、大学芋や鬼饅頭の日も稀にあったりして、どうしたわけか同じサツマイモながら、それらは別物としてぼくの好物でもありました。

昭和半ばのぼくの3時のおやつは、サツマイモの他にも、こんなものがありました。

まずは、お櫃の残りご飯に砂糖と卵を入れ、それを混ぜ合わせ、フライパンでホットケーキの様に焼いた、ライスケーキ!
お櫃の中で饐えた匂いのする冷ご飯でも、お母ちゃんは笊に空け、水洗いして「なぁ~んともないない!」って、平気でライスケーキにしてくれたものでした。
それでも不思議と、それを美味しい美味しいと言って鱈腹食べても、お腹はなぁ~んてことありませんでしたから、当時の子ども時代は、胃腸も丈夫だった証かも知れません。

それと節約おやつの定番は、パンの耳の「揚げパン」。
これまた大好物でしたねぇ。
お母ちゃんがパン屋さんで食パンを買い求めるついでに、サンドイッチにした残りのパンの耳を貰って帰って来て、よく作ってくれたものでした。

お母ちゃんは餡子好きでもありましたから、火鉢の上ではよく大鍋で小豆が炊かれ、そのまま大盛のぜんざいとなる事もしばしば!
とうぜん3人家族で一度に食べきれる量ではありません。
だから残ったぜんざいは、大きな丼鉢に入れられそのまま冷蔵庫へ!
それが翌日以降のぼくのおやつとなったものでした。
写真のような焼餅など入っておらず、代わりにお母ちゃんお手製の白玉粉が浮かび、ぼくはそこに牛乳を入れ丼抱えて満足気にいただいたものでした。

時にはこんな市販の「甘食パン」の日も、嬉しかったものです。
昭和半ばのおやつは、コンビニで品定めするような、裕福な時代でもなく、お母ちゃんが与えてくれるものを、それなりに楽しみながらいただいた、尊い時代でもあった気がしてなりません。
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蒸したさつまいも だけを見ても美味しそうです。やはり昭和女子ですね。
当時、「万能鍋」とゆう鍋で 今でゆう「無水鍋」なんでしょうね。それで蒸してもらい お塩多めで冷蔵庫で冷えていると嬉しかったです。なんでもご馳走様でした。
やっぱり女性は、芋栗南京に目がございませんかぁ!
ぼくは唾液の分泌量が少ないのか、芋栗南京が口の中でパサパサとなってしまい、なかなか飲み込めないのも苦手な原因のようです。
お餅が小さい頃は苦手だったので 白玉が入っているのをお願いしてました。
オカダさんのブログで知ったぜんざいに牛乳は とても美味しかったですよ。
冷やっこいぜんざいに、牛乳はとっても魅惑的な美味しさでしょ!