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これこれ!
これをご存知の方は、これまた押しも押されもせぬ、昭和半ば生まれに違いないでしょう!
ぼくが初めてこのスーパーボールとやらと出逢ったのは、小学2~3年の頃の事だったように記憶しています。

恐らくご近所の中学生のお兄さんたちが、スーパーボールをアスファルトの地面に叩きつけると、とんでもなく高くまでボールが跳ね返る姿に、ただただ度肝を抜かれるほど驚いたものです。
でも中学生のお兄さんたちから、まずもってそのスーパーボールを貸してもらえるはずもなく、ぼくらは遠巻きにその不思議な威力を発揮するボールの行方を目で追ってばかりだったように記憶しています。
どこへ行けば売っているのやら、いったいいくらするやら?

しかしそれから半年くらい経つと、いつもの一文菓子屋の店先にも、スーパーボールが並べられておりました。
果たしてそれがいくらだったのやら?
一日10円の小遣いだったぼくには、とても買えなかったわけですから、そんなにお安くは無かったってぇ気がします。
しかし、腕白小僧の友の中には、羽振りの良い奴もおりまして、さっそくスーパーボールを手に入れ、自慢げにコンクリートブロックの塀を相手に、とんでもない威力を発揮して跳ね返って来るスーパーボールで、自慢げに遊ぶ輩も登場したものです。
そんな友の周りには、ぼくのようにおいそれと小遣いで買えないものが集まり、スーパーボールを貸してもらえるのをひたすら待ち続けたものでした。
まぁ、今にして思うと、とんでもない威力を発揮して跳ね返ってくる以外、さりとてこれと言った他に芸のあるものでもなかったのに、ただただその反発力が驚くほどだったために、喉から手が出るほどに、スーパーボールに憧れたのかも知れません。
まだまだ、お祭りの夜店でスーパーボールすくいなるものが、登場する前の話しであった気がします。

大人になってから夜店の出し物で、スーパーボールすくいを見かけた頃は、もうすっかりスーパーボールの魅力も消え失せちゃってましたですねぇ。
そんな腕白坊主共の目を虜にしたスーパーボールは、昭和39(1964)年の東京五輪の年に、アメリカの化学者ノーマン・スティンレー (Norman Stingley) の手により開発されたものだったようです。
「Super Ball」は爆発的にヒットを記録し、最盛期には日に17万個が生産されたとか。
その後しばらくして、日本にも上陸したんでしょうねぇ。
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遊んだ記憶あります。集めるまでは行かなかったような。
ぼくもまったく同じで、遊んだことはありましたが、それを集めはしなかったと思います!
何度も跳ね返りを楽しんだ記憶もなく ただカラフルできれいに見えたから 何個か持ってましたね。
おはじきやビー玉みたいな感じで。
夏のお祭りで 流しそうめんの機械の水の中をビー玉がぐるぐる回ってるのを見てる子供達の表情を見ると 当時の自分もこんな感じだったんだろうなぁ〜って思いますね。
女の子たちは、小さなサイズのスーパーボールや、おはじきなんかでも、カラフルで可愛らしいモノに目が無かったようですものねぇ!
化学者の開発による物とは知らなかったです。なので驚いています。
色も女の子が興味を持つような色ではなかったような気がしていたら 参考写真のような色でした。
開発当初の頃は、今の夜店で見かけるような、可愛らしいサイズとカラフルな色の物は無かったでしょうねぇ。