「昭和Nostalgia」(166)

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「広報ひだ」の『飛騨びと 言の葉綴り』がこちらの★P20裏表紙のコピー (city.hida.gifu.jp)

残念ながら広報ひだの本誌は、紙面のスペースに限りがあり、掲載文は抜粋版となっております。文字数制限のないweb版も山本久恵さん(古川町) – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)併せてご覧いただければなによりです。

甚だ勝手な㊗飛騨市制20周年記念song「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」をyoutubeにアップしました~っ!記念ムードで盛り上がる、飛騨市の雰囲気を歌い上げま~す!


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こんな駄菓子ってご存知ですか?

ぼくは微かに記憶がある様な気がします。

原材料は澱粉、砂糖、ゼラチン、寒梅粉(餅粉)、着色料、香料、クエン酸で、澱粉は片栗粉(ジャガイモの粉)が使用されているとか。

でもぼくが鮮明に覚えているのは、このお菓子の方ではなく、板状の薄い折り紙くらいの大きさのべっこう飴に、動物などの抜型が細工されていて、それを舐めたり噛んだりして、抜いてゆくと言うものでした。

ところが途中でパリンっと割れてしまい、後はやけになって噛み砕いて食べたものです。

色々調べていて、やっと大阪にあるカタヌキ菓子の㈱ハシモトさんのHPに辿り着きました。

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その会社さんの歴史を拝見すると、「始まりは戦後、私の先々代がべっこう飴からヒントを得て、より薄く延ばしヌキ飴という絵模様の入った商品を開発しました。聞いた話によると、飴は熱いうちに加工しないと成形ができないらしく、数を多く作るにはかなりの職人技が必要だったそうです。飴は夏など高温・高湿度に弱く、くっつきやすい等の問題があり、商品管理が困難でした。そこで1960年頃に、東京で流行っていたカタヌキを研究し、現在の高温に耐えれる精糖を主にした「カタヌキ」に改良したそうです。
この頃は紙芝居が全盛期で、紙芝居屋さんが大阪だけでも千人以上いたそうです。」とありました。

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確かに今思い出しても、べっこう色した折り紙のような薄っぺらな飴で、なんだかとても儚い感じのする駄菓子でした。

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飴玉ではなく、板飴とでも言えばいいんでしょうかねぇ?

ともかくもう現代には存在しえない、幻の駄菓子の一つかも知れません。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「昭和Nostalgia」(166)」への4件のフィードバック

  1. そうだったんですね。そして確かに存在していたところまで辿り着けるなんて 凄いですね。
    そして 私はオカダさんのブログで 子供の頃に宵祭りで夢中になっていた「カタヌキ」に出会えました。ありがとうございます。

    1. 何だか消え行ってしまう昭和の駄菓子に、とても哀愁を感じてなりません。

  2. 調べてみるとカタヌキ100枚セットと書いてあり 数の多さに驚き 懐かしい宵祭りを思い出しています。

    1. カタヌキお好きだったんですねぇ。
      でも100枚セットはあまりにも多すぎますよねぇ。

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