いよいよ飛騨市の「広報ひだ」で、「飛騨びと 言の葉綴り」の連載が始まりました。広報ひだ 2024年4月号 – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)
飛騨びと~言の葉綴り~ – 飛騨市公式ウェブサイト (city.hida.gifu.jp)
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今日の「昭和Nostalgia」『小学校の想い出シリーズ⑮』はコチラ!

小学3年の時に、隣の席の女の子が赤痢にかかったことがありました。
そりゃあもうクラス中どころか、学校中が大騒ぎ!
ぼくなんてお隣の席に座っていたんですから!
とにかく担任の先生が、「赤い血の付いたウ〇チが出たら、赤痢が疑われるので、申し出る様に!」との事。
その日は、確か1時限目で、みんな下校させられたと記憶しています。
家に帰ると赤痢患者の近くの席に座っていた生徒の家に、保健所から係りの人が来て、わが家のいたるところに消毒薬を巻かれ、近所の方々になんだか白い目で見られたような!

ちょうどその日、昼前に下校すると、わが家のボットン便所の汲み取り口が開いていて、バキュームカーの汲み取りが回って来る日でした。

写真の左下の木枠の扉のような口が空き、そこへバキュームカーの太いホースが差し込まれ、肥え甕の中を奇麗さっぱりと吸い込んでくれたものでした。
確かバキュームカーの太いホースの口先には、作業が終わると草野球でお世話になった国際ボールがスポッと嵌められていましたねぇ。

ぼくは夏休みの間とか、バキュームカーが来て、汲み取り口が明けられ、外の光が肥え甕に差し込むのを、ボットン便所の中から眺めるのが楽しみの一つでした。
だから赤痢事件で1時限目で家に帰った日も、わが家のボットン便所から、陽が差し込んだ肥え甕のわが家の作品を眺めていたものです。
するとどうでしょう!
なんと赤いウ〇チのようなモノがあるじゃないですか!
「あああっ!」
でも犯人がぼくじゃない事は確かです。
だって用を足してお尻を拭くと、ぼくは必ずそのチリ紙をチェックする癖があり、拭き残しが無いかを確認していたからです。
となれば、3人家族のわが家、犯人は父か母と決まっています。
とても心配になり、すぐさまお母ちゃんを問い詰めました。
すると「はぁ~っ?そんなもんお父ちゃんに決まっとるわぁ!」とケンモホロロ。
夕方父の帰宅を玄関前で待ち伏せ、問い詰めました。
すると「???はぁ~っ、そんなんお父ちゃんやないでぇ」と。
結局幸いにもわが家から赤痢患者は出ることも無く、クラスメイトにも感染せず、なんとか凌げたものでした。
そしてそれから中学へと進学し、保健体育の授業で、その謎が解明したものでした。

とは言え、そんなこと今更お母ちゃんの前で蒸し返すなんて、とてもとても出来ませんでしたけどねぇ。
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物心が付いた頃には水栓トイレだったと思います(都会ですから)笑
でも、近所にはまだボットン便所のお宅もありバキュームカーが来てましたよ。 田舎に泊まってボットン便所だった時、下から手が出てきたらどうしよう!って思った事って無いですか?
子供の頃は怖わかったなぁ(¯―¯٥)
ぼくも三重の田舎の従兄妹の家にあった、離れのボットン便所が怖くって仕方なかったものです。
だから夜中にトイレに行くときは、必ずお姉ちゃんを起こして一緒に行ってもらったものでした。
幼稚園の頃は 和式トイレで更に 一度 家から出なきゃいけなかったので 二倍の怖さでした。
小学校入学と同時に引っ越して やっと家の中にトイレがあって…
水栓じゃなかったけど 嬉しかったなぁ〜。
5年後の引っ越し先で ようやく水栓トイレだった時は 既に外出先等で体験してたので感激が薄れて。
でも 毎日使えるんだ〜って嬉しかったですけどね。( ◠‿◠ )
トイレにも庶民の歴史がありますよねぇ。
その時々の風景の一つとしても。