「素描漫遊譚」
「大垣市郭町界隈」
今回の「素描漫遊譚」は、大垣市郭町で洋傘店を営む小倉登羊衣さん(68)のナビで、芭蕉生誕360年祭に沸く大垣市を、俳人気取りで「あっ、奥に細道!」なんて洒落ながらのんびりと漫ろ歩いてまいります。
大垣駅前から南へ。
目抜き通りをしばし進めば、水の都大垣の象徴でもある水門川にさしかかる。
郭町の商店街に、古の昭和の残像を偲びつつもう少し行けば、戦国の武士達どもの生き証人、大垣城の城壁が右手に立ちはだかる。
城の東脇には細い路地。
「やった、奥に細道!」。
バックパックからデジカメを取り出し、まるで魂が何物かに吸寄せられるように、袋小路の中へと。
肩を寄せ合うように犇き合う一杯呑み屋の軒先。

酔いどれ女が厚化粧も落さずそのまま寝入り、所々化粧の剥がれ落ちた素顔を、煌々と朝陽に照らし出されたようなやりきれなさ。
まるでふざけ過ぎた祭りの後のような、呑み屋街の残骸が広がっていた。
この呑み屋街でいったい、どれだけの男達が憂さを晴らし、どれだけの恋が生まれ砕け散ったことだろう。
最後まで取り込まれなかった縄暖簾に、びっしりと張り巡らされた蜘蛛の糸が、人波の耐えた年月を物語る。

「あったよなぁ、昔。こんな風景」。
デジカメのシャッター音だけが、昭和の残骸の町に空しく響く。
「ここら辺りも、みんな再開発やて」。
登羊衣さんが、遠ざかる昭和に溜め息を落とした。
「開けっ放しの引き戸の奥から、女将さんが通り過ぎるぼくらを、親しげに呼び止めるんだろうな」。
「でもそんな風に声かけられたら、一巻の終わり。一杯だけだよって、やっぱ呑んじゃうんだよね」。
立ち止まってひとりごちた。

お向いのスタンドバーから、流しのギターに合わせ、調子っぱずれの濁声でも聞こえれば、色褪せた昭和の時代にいつでも戻ってゆけることだろう。
「紫陽花も 酒の吐息に 頬染める」 旅の詠人
さあそれでは、芭蕉生誕360年祭に彩られる大垣市の街並みを、のんびりゆっくりと、漫ろ歩いてまいりましょう。
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わたしゃ~ぁ⤴生まれてこの方
縄のれんなんて、くぐった事がない❕
イイよねぇ❕カウンター越しに・・
店のオヤジが「いらっしゃい」
でぇ、お客さんが「オヤジいつものアレ頼むよぉ」
この光景は、きっと令和の時代になっても
飲み屋さんのオヤジと常連の客とのやり取りは、こんな感じなんでしょうか?
そうそう、思い出した。
先日の土曜日、用事があって、岐阜駅前の玉宮町界隈を通った所
ご時世のせいか、昼呑みをやっている飲み屋さんが数多くありました。
但し、夜の飲酒はやっていないみたいで、
昼からご機嫌なお客さんが・・
そんな風景を見ると、お酒呑みは昼も夜も関係ないようです。
しかしコロナ時代を迎えてからは、とんと飲み屋に行ってませんねぇ。
もっぱら朝でも昼でも、もちろん夜も家呑み一筋。
だってパジャマで吞めちゃうんですもの。
お気楽お気楽!
夜はきらびやかなネオン街に、明るい時間に足を踏み入れた事があります。雰囲気や臭いが夜とは違い、怖いくらいだった事を覚えていますが、でもあれは夢で見た光景だったのだろうかと思う事があるんですよねぇ。
確かに闇に紛れたような、怪しい煌びやかさがありますよねぇ。
それに引き換え真っ昼間は、スッピンそのものですものねぇ。
小川傘店
懐かしい
小さい頃貧しかったけど
母親は傘が壊れると
幼い僕たちをつれて
よく、小川傘店へ持ち込み行きました。
その帰りは必ずって、言っていいほど
あげ小田巻買っていました
そうかぁ、マンちゃん家のご近所かぁ!
でももう今は無くなっちゃってるのかなぁ!
高屋町の今はなきヤナゲンの道隔てた北側にオダマキ屋がありました。興文小学校に通っていた同級生がいました。いまは再開発されてまって往時の風景は一変してまいました。
人間の風体も年代を経て変化するように、町も町を行く人も、お店も店主もその時代時代で、そうした変化を遂げてゆくものなんでしょうね。
その時代と言う一瞬を心に焼き付けた者に、「込み上げる懐かしさ」だけを遺して。
そうですね。むかしの70代、いや50代、60代の人たちは皆さん普段着に着物を召しておられました。ウチの祖父母もそうでした。いまの私はジャージです。大垣駅は半世紀前はレンガ造りの瀟洒な建物でした。天井も高くハイカラでした。ここからはバスが彦根駅や桑名駅まで通っていました。世の中は変わっていきます。
ぼくは〇ニクロのスエットが、もっぱらわが家でお籠りタイムの最高のドレスコードです。