「素描漫遊譚」
「池下、幻の『ときわ喪(そう)』」
蝮ヶ池八幡宮、裏手の坂道にその館はあった。
数々の漫画家を生み出したとされる、かの有名な「ときわ荘」とはまったくスケールも異なるが、ぼくにとっては名古屋の、いやもう少し小さなサイズの池下「ときわ荘」だったことに違いはない。

その館は、とあるアパレル関係の社員寮。
そこの住人二人とぼくが、その後の30年近く、互いの人生に深く関わり合おうとは、誰一人気付いていなかった。
住人の一人、背の高いカーリーヘアーの細身の男は、起き抜けにミスドで5つもドーナツを平らげ、カツカツと栄の婦人服売り場へと向かう。
彼の愛称は、「Cさん」。
もう一人の住人は、ヒョウヒョウとして当り障りのない、人畜無害の優男「Kくん」。
ぼくはバンド活動を通じて、Kくんと知りあった。
Kくんがドラムで、ぼくが作詞作曲ボーカルの、美味しいところ総取り。
その頃ぼくは、地元ラジオのパーソナリティーとして活躍されていた、Iさんとボロアパートで同居しており、夜の店を梯子して唄い歩き、下手糞なギターで歌伴を付けながら生計を立てていた。
ある時クラブのオーナーから、栄で閉めている店をぼくらの好きなように営業してみないかとお誘いがあり、Iさんと共に気が向けばライブもやるという、不埒な店を始めた。

そこにKくんが練習ついでに立ち寄り、客として連れてきたのがカーリーヘアーのCさんだった。
「ぼく、絵描きになろうと思って。お金貯めたらパリへ行くんだ」。
Cさんの一言を今でもぼくは鮮明に記憶している。
しかしその店も敢無く1年足らずで閉店。
3人とも音信普通に。
それから6年。
既にCさんはあの夜の夢を実現し、パリで絵描きの勉強を終え、帰国後大きな賞を受賞し、イラストレーターとして輝いていた。
一方ドラマーのKくんは、何故かカメラマンに変身しており、これまた月刊誌の表紙を撮影するほどの売れっ子に。
よくよく考えれば、ぼくだけ何者ともつかぬ生き方のまま、ただ漠然と時を過ごしてしまった。
『ああっ、あの日、あの時。彼等二人の寮に潜り込んででも、池下「ときわ荘」の住人に、強引でもなっていれば・・・!』

ただ今となっては、無情にもときわ喪失、後の祭りだ。
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音信不通か~ぁ⤴
私、ここ最近、昔、夜な夜な遊んだ仲間と会いたい ❢
みんな、今頃、何やっとるんやろ~ぉ⤴
と、思うようになったんです。
誰一人、連絡が取れない、全くの「音信不通」
ホント、寂しいねぇ ❢
誰かが?言ってたな~ぁ
「昔を異常に懐かしむ、それって死期が近いんと違うんかい?」
「そうやろうか?」
けどねぇ!
もう少しだけ、オカダさんイジメをしたいと思います。
なんてねぇ❕
そう言うイジメの夢であったって、ご延命のお役に立てるのなら、イジメだって大歓迎ですよおぅ!
なんだかトキワ荘の夜桜と夜空の色が素敵な青春を写し出しているようで 心惹かれます。
あっ!あ〜そうだったんですね。それは凄い事ですね。
人生って、どこでどーなってんでしょうねぇ!
うまい、オカダさんに座布団一枚ლ(´ڡ`ლ)
違う人生が今より良いとは限らないんだけどねぇ。ついつい・・・。
そうですって!
隣の芝が青く見えちゃうものなだけなんでしょうねぇ。
せめて自分だけは自分が選択して歩んだ人生を、とことん信じてやらにゃあ、自分があまりにも可哀そうになっちゃいますからねぇー。
あの日、あの時…
○○してたら ○○じゃなかったら ○○してれば。
ほんの一瞬の分かれ道。
どんな自分になってたんだろう。
想像すると ちと楽しい。
人の一生って、右へ行くか左へ向くかの繰り返した結果が、現在の自分の座標軸になってるんでしょうねぇ。