2001年1月23日 毎日新聞朝刊掲載
「カトマンズの動乱」
カトマンズ空港には、ほんの3時間のトランジットと高を括ったのが運の尽き。
その日のうちにインド・バラナシに向かう予定が、待てど暮らせど飛行機はやって来ず、ついに一方的にフライトがキャンセルされた。
今や国境も肌の色も言語も越え、運命共同体的存在となった、約40名の外国人同乗予定者ご一行様とぼくも一緒に、ネパールにしかたなく再び入国。
翌日の出発まで、航空会社が手配したホテルで過ごす事となった。
またご一行様は勝手に行動せず、すべて一緒に行動するようにとの指示が言い渡された。

どうやら「何か?」があったに違いない。
しかし一向に航空会社から正式な発表は無い。
いや発表があったにせよ、ぼくの語学力では、それ以上の解読が不可能であった。
急遽旅の道連れとなったメンバーは、イタリア人の団体客約25人とフランス人の老夫婦。
それにインド人の家族連れ、イギリス人中年夫婦、アメリカ人母娘、さらにカナダ人の若者カップル等とぼく。
カトマンズ空港正面に横付けされた、航空会社が急遽チャーターしたワゴンに分乗する。
しかしワゴンとは名ばかりで、ほとんどその辺の農家から、急場凌ぎに借り集められたような、申し訳程度の屋根と椅子が付いたワゴンばかりである。
ぼくらのワゴンには、カナダ人で日本に半年滞在し競輪選手を目指したという青年とガールフレンド、それにアメリカ人母娘、そして南アフリカ人のビジネスマンが乗り合わせた。
中でもしばらくカトマンズに滞在していたと言う、カナダ人カップルの説明によれば、インドの人気映画スターがネパール人を軽蔑するような発言を繰り返したとか。
それが発端となり、昨日インド大使館をネパーリーの学生らが包囲し、火炎ビンや投石を繰り返す大掛かりなデモ行為が勃発し、弾圧に向ったネパール軍との間で衝突が起き、二人のネパーリー学生が死亡したとか。
カトマンズでは、ネパーリーとインド人との関係が、一触即発の危機的事態となっており、市中も厳戒体制下にあるという。
「えらい時に、えらい場所に来ちゃったもんだ? 嗚呼、神様、お釈迦様!」。
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競輪と言えば・・
悪ガキに競輪選手がいました、A級1班だから階級は真ん中あたり
ま~ぁ⤴そりゃもう⤴羽振りが良かったですねぇ!
20歳で当時アメ車の「カマロ」に乗っていましたから
ツレを見回しても、当時外車に乗っている奴は、そいつしかいなかった。
でもさ~ぁ⤴
良い時ばかりじゃ~無いねぇ❢
落車して大けがをして選手生命は終わりました。
「人生一寸先は闇」とは良く言ったものです。
私の場合もそうだった「モテ期」なんていつまでも続かなかった。
けどさ~ぁ⤴
波があったからあまり気にならなかったねぇ!
どんな人だって、人生なんて弥次郎兵衛みたいに、右へ傾いたり左に傾いたり。
やがて左右が真っ直ぐになって静かに止まる。
その瞬間があの世へ召される時なんでしょうねぇ。
オカダさん、娘さんのご結婚おめでとうございます。
末永い幸せを願っています。
新曲待っています。
ありがとうございます。
新曲は期待せずにお待ちくださいねーっ。
言葉が通じない国でのアクシデントはヒョェ〜!!じゃないですかぁ(@@;)
でも、一人じゃないって言うだけで心強いものがあったんじゃないのかしら。
でもそんなアクシデントが一番の思い出になるものなんですよねぇ。
イヤハヤ大変な目に遭われたのですね。でもコレもご縁なのでしょうか。それにしても添付の写真にある被写体の色とりどりのコト。行き交う人たちの乱雑さに彼の地の動的魅力を感じてまいます。
とにかく何から何まで、驚くことばかりでした。
混沌と言うのにふさわしい彼の地でした。
オカダさんって 確か以前にも似たような事があったような?
ブログに書いてあったような…
帰国後に何か起きたんじゃなかったでしたっけ?
国内でも何が起きるかわからないのに 外国でとなると もう身動き取れないし生きた心地しないはず。
怖いよ〜。
ホントいろんな体験してますよね⁈
色んな体験をさせていただけたればこそ、今ここにいるんですものねぇ。