Gifu Poem「高山愌章館(かんしょうかん)の中庭」と「昭和懐古奇譚」(2013.9新聞掲載)

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君がモガならぼくはモボ キネマ帰りにカフェーして

(かん)章館(しょうかん)の中庭で ベンチ腰掛け日暮れまで

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木漏れ日浮かぶヴェルレーヌ ハイカラ言葉愛の詩

「ジュテームビヤン君が好き」 ぼくの囁き君のキス

「小学校のトーテムポール」

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盆の墓参りを済ませた、帰り道の車窓。

半世紀近くも昔に通った、小学校の学び舎の校門が過ぎった。

ほんの一瞬の事。

田んぼだらけだった学校の周りは、いつしかマンションや商店が立ち並び、昔の面影は微塵もない。

だが見紛うはずなどない。

寝ぼけ眼を擦りながら6年間、雨の日も風の日もランドセルを背負い、A君と通い続けた校門なのだ。

しかしA君とは卒業後、プッツリ音信も途絶え、風の噂で昨年鬼籍に入ったと知った。

両親の眠る墓で草をむしりながら、真っ黒に日焼けした友の泥んこ顔を、ぼんやり思い出したのも何かの奇縁か。

矢も盾もたまらず車を止め、小学校へと向かった。

どうしてもこの目でもう一度、「アレ」を確かめたかったから。

「さあ今日から、卒業制作の仕上げに取りかかるぞ!3組の皆で考えに考え抜いた図案を、6年間を締め括る思い出として、クラス全員で鑿を使って彫るんだ!」。

そんな担任の号令で、トーテムポール作りが始まった。

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中でも一番の主役は、用務員のオジチャン。

名誉の負傷で復員した、傷痍軍人だったと記憶している。

見た目が厳つく、思わず尻込みしたくなるほど、バリバリの帝国陸軍の猛者といった感じだが、その実まったく裏腹に、すこぶる陽気で面倒見も良く、子どもたちの人気者だった。

用務員のオジチャンの見せ場は、年に二回。

一回は運動会の準備で、もう一回は6年生の卒業制作として恒例だった、このトーテムポール作りと決まっていた。

まずは電力会社が電柱をコンクリート化するため、お下がりとなった丸太の電信柱に跨り、図案を元に下絵を描く。

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そして男子が中心となり、下絵に沿って慣れぬ手付きで鑿を揮う。

粗方彫り上がると、今度は女子が中心となり、ペンキで色付け。

それらを指揮するのは、もっぱら担任ではなく用務員のオジチャンだった。

ぼくらのクラスの図案は、頭と顔が友愛の象徴としての鳩。

そして希望ある明日に向かって羽ばたこうと、鷹の翼が用いられた。

当時の学級委員、A君の発案によるものだ。

何日かの作業を経て、ぼくらの卒業制作は完成した。

「皆で、翼の裏側に、自分の名前を彫ろうよ」と、これまたA君が起案。

さっそく皆で、彫刻刀片手に名前を刻印。

6年5組までの全ての作業が完成し、校庭の片隅に1本のトーテムポールが建てられた。

ぼくらの3組は、上から3番目。

卒業式の後、皆で飽きもせず、天空へと突き立つトーテムポールを、眺め上げていたものだ。

「誰かお探しですか?」。

不意に校庭から、フェンス越しに声を掛けられた。

どうやら水泳部の顧問の先生か?

「ああ、トーテムポールですか…。私も聞いた話ですが、もう随分前にポールが老朽化したとかで、すべて撤去されたようです…」と。

A君は一足早く、年老いたトーテムポールの翼に跨り、卒業式のあの日皆で見上げた、何処までも高い天を目指して逝ったのだろう。

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またお彼岸の帰り道寄ってみるよ。

君のトーテムポールが威風堂々と建っていた、あの校庭の片隅に。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「Gifu Poem「高山愌章館(かんしょうかん)の中庭」と「昭和懐古奇譚」(2013.9新聞掲載)」への6件のフィードバック

  1. 小学生の時に6年生がトーテムポールを制作して
    講堂の前に2本、卒業記念と要して立ててありました。
    結構、立派に出来上がって小学生が本当に作ったの~~ぉ?って感じ!
    でぇ!自分の卒業記念は何をしたか?
    全く覚えがないのです。

  2. トーテムポール、昔はいろんな小学校でよく目にしたものですが見かけませんね。小学生が卒業作品として造られたのですね。オカダさんと同年代の私の小学校にもトーテムポールがあった記憶があります。今は、ありません。
    ウチの小学校は用務員はお婆さんでした。運動場の片隅に住居があり住んでおられました。当時は先生が宿直をされていたので、その賄いも担当されていました。色の黒い、ニコニコしておられたお婆さんでした。私が高校生か大学生の時に他界されました。
    オカダさんの記事で、昔の思い出が蘇りました。ありがとうございました。

    1. そうでしたかぁ。
      ぼくらの時代って、まだまだ戦争の傷跡を引き摺っていた頃でしょうから、そのお婆さんも戦争未亡人でいらっしゃったかも知れませんねぇ。
      ぼくの学校の用務員さんは、オジサンでしたねぇ。

  3. キャ〜!涙が出る程懐かし〜い( ◠‿◠ )
    トーテムポール!ありました!ありました!小学校の運動場の片隅に。
    入学した時には 既にありました。
    なんで?とも思わず あるのが当たり前。
    今ブログを見て 初めて「なんでトーテムポールがあったの?」って疑問を抱いてます(笑)
    でも 母校のトーテムポール もう無いんだよなぁ〜。

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