長良川母情⑲(2009.7月新聞掲載)

子どもの頃のぼくは、月末の日曜日が待遠しくてならなかった。

朝からよそ行きの服を着せられ、この日ばかりは母も三面鏡の前に座り込み、念入りに紅を注す。

そしてガタゴトとボンネットバスに揺られ、お目当ての駅前百貨店へと母に手を引かれ。

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開店間もない通路の両側には、店員が見事に整列し、(うやうや)しく(かしず)くように母とぼくを出迎える。

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何だか急に王子様にでもなったようで、妙に居心地が悪く、お尻の辺りがこそばゆくてしかたなかったものだ。

それもそのはず。外見こそよそ行きのまともな服に見えるが、人目に付かぬ下着や靴下なんぞは、そこら中(ほころ)びだらけ。

母の得意の裁縫で器用に繕われただけ。

だから本当は見透かされているような気がしてならなかった。

だがそれにも増して、慇懃無礼(いんぎんぶれい)なほどの態度で出迎えられることに、ある種の快感めいたものさえ感じてもいた。

もしかすると月に一度、母もその快感を得たいがためにぼくを引き連れ、給料日後の日曜日に出掛けたのだろうか?

いや、間違いない。

その証拠に、散々売り場を歩き回った末、母が買い求めたものと言えば、80円均一売り場のどこにでもあるような台所用品だったからだ。

何も駅前までバスに乗って、買い求めるほどのものでもないであろうに。

帰りのバスで母は決まってこうつぶやいた。

「あ~あ、ええ目の保養させてまったわ」と。

ぼくのお目当てと言えば、百貨店の7~8階にあった大食堂のお子様ランチ。

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母の目の保養とやらにさんざん付き合い、愚図らず何も欲しがらず、粛々とオリコウサンを演じ続ければ、帰り際に母がご褒美代わりに振舞ってくれたものだ。

ご飯に国旗はためく、(かぐわ)しきお子様ランチ。

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長良川右岸を岐阜市から南へ。

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墨俣一夜城を右手に眺めながら、支流の犀川を越え右手の中山道の脇街道へと歩を進めれば、脇本陣跡の酒屋や昔の家並が忽然(こつぜん)と現れた。

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「家の店で全部揃えて嫁いでった人も、ようけおったんやに。その昔は」。

()(しま)屋百貨店と書かれた看板を見上げていると、三代目女将の大塚弥生さん(73)が店先で気さくに声を掛けて来た。

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「創業100年やで、昔は銀行の代わりみたいなこともしとったみたいやわ。養蚕が盛んで、農機具から下駄や寝具にちり紙まで、今と違って何でもあった。ああ、この上見てみい。何やと思う?」。

帳場の上の天井部分が、六尺四方ほど切り取られている。

「二階の倉庫から、ちり紙なんか直ぐに下ろせるよう細工したるんやわ」。

すると傍らから「この辺は水郷地帯やで、いつ水が来てもいいように2階を倉庫にしたるんやて」と、夫の光男さん(75)。

弥生さんは昭和33年に羽島市から嫁ぎ、二女を授かった。

「この家、奥行きが35間(約63m)もあるもんで、御仏飯持って奥行くのが慣れるまで怖かったもんや」。

弥生さんは達筆な筆遣いで、熨斗や年賀ハガキの代筆も手掛ける。

参考資料

「熨斗書いとる間、店の中見て回って買ってもらえるやろ」。

弥生さんは屈託なく笑った。

岐島屋は一夜城に非ず。

百年の夜を経て今もなお商い続ける「百貨繚乱(りょうらん)店」。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「長良川母情⑲(2009.7月新聞掲載)」への12件のフィードバック

  1. 本当に秋はそこまで来ているのか?
    毎日、暑い!
    お城って、ロマンがあってイイよね~ぇ⤴
    でもさ~ぁ!
    一番みたいのは「安土城」
    岐阜城の様に山の上の天守閣
    信長が自身の力を誇示する為に築城したんでしょう!
    権力って言うのは・・・凄いねぇ!
    い・つ・か?オレだって~~ぇ!

    1. 全国各地に様々なお城がありますが、人それぞれに好きな城も異なるんでしょうねぇ。
      ぼくは差し詰め、松江城が好きでしたねぇ。

  2. 子供の頃、私が乗ったボンネットバスには、側頭部に鉄道の腕木信号機のように曲がる方角に羽根が「飛び出る」仕掛けがありました。
    ロータリは名古屋駅前の噴水ですか?市電は走ってなかったのでしょうか。ということは名古屋じゃないのかな。
    お子様ランチ、懐かしいです。百貨店の上層階にありましたね。写真にある方々の服装、特に女性がお召しになっている服装に昭和を感じます!

    1. 確かに子どもの頃に乗ったボンネットバスのウインカーは、赤い槍の先のようなものが、右へ左へと90度飛び出すものでしたねぇ。

  3. デパートで目的を済ませただけじゃ帰りませんよ。デパートの梯をしながら目の保養してきちゃいます。ウィンドウショッピングが楽しい⤴️

    1. あ~あ~、デパートの梯だなんて!
      ぼくはまったく苦手でしょうがありません。

  4. あ〜!お子さまランチだ〜( ◠‿◠ )
    だ〜い好き♡
    小学生の頃 2, 3ヶ月おきにユニー刈谷銀座店に行って 最上階でお子さまランチを食べて 屋上のミニミニ遊園地で遊んで…。アーケード街にもたくさんお店があったので 少し歩いてはお店をのぞいての繰り返し(笑)
    本当に本当に楽しくて 昨日の事のようにはっきりと覚えてます。

    1. 夢のようなひと時でしたよねぇ。
      今とは全く違う興奮や感動が、そこら中に転がっていた気がしちゃいます。

  5. Hi i am kavin, its my first time to commenting anyplace, when i read this piece of writing i thought i could also create
    comment due to this good piece of writing.

  6. オカダさんのお気に入りの松江城に高校時代の修学旅行で行きました。岡山までしか新幹線は通っていなかった時代です。新幹線で姫路駅まで行き、そこから神姫バスに乗って岡山、倉敷、鷲羽山そして松江城ならびに小泉八雲記念館にまいりました。帰途は姫路駅までバス。泊まったのは鷲羽山観光ホテルおよび蒜山国民宿舎でした。半世紀以上も前の修学旅行をなぜこんなに覚えているのでしょうか。それは、僕が団体行動がとても苦手だったためです。

    1. あらら、神戸町のイカじじい70さんも団体行動が苦手でいらっしゃいますかーっ。
      ソロ活動主体で生きて来ちゃったせいか、団体旅行やバス旅行にはどうにも馴染めなくっていけません。
      しかしもう手遅れですが(笑)

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