
平成4年7月。
蝉が喧しく鳴く、油照りの朝。

母は享年64で、この世を去った。
その翌年の平成5年6月。
ひと雨ひと雨、雨に打たれながら、紫陽花が色を深める夜半。

この世にたった一人きりの娘が、元気な産声を上げた。
まるで母が娘となり、再びぼくの元へと、逢いに来てくれたのじゃないか。そんな不思議な思いに駆られたことを、未だ鮮明に記憶している。

同時に、命の儚さと命の尊さ。
そして何よりも、娘を不器用にこの手で抱きしめた瞬間、命の重さを受け止め、知らず知らず涙が頬を伝った。
平成12年春。
小さな体の娘には、不釣り合いなほどに大きな、真新しいランドセル。

桜の花びらが舞う中、娘は赤いランドセルを揺らし、校門を潜ってゆく。
その背中を見つめ、娘の成長ぶりを実感した。
しかしそれからわずか2か月後。
今度は入院中の父が息を引き取った。
いつも夕方になると、ウォンウォンと吠え、父を散歩に誘ったわが家の飼い犬。

父の死を知ってか知らずか、その日ばかりは一日中、弔鐘のように吠え続けた。
さらに3か月後には、東海豪雨に見舞われた。

娘が通う小学校の体育館に、犬を連れ家族皆で避難。
しかし幸いにも、わが家の辺りは、浸水の被害も無く済んだ。
その年の暮れ、仕事の関係でぼくは単身東京へ。
娘の声が聴きたくて、夕方になると用もないのに、毎日のように電話を入れた。
そして平成も掉尾を飾る今年。
娘に彼を紹介され、円卓を囲みしたたかに飲んだ。

嬉しさと寂しさが綯交ぜになった、これまで味わったこともない、不思議な感情。
その気持ちとの向き合い方も分からず、酒を煽って誤魔化した。
すると不意に彼が「お父さん」と呼んだ。
思わず誰の事かと、怪訝に後ろを振り返った。
そしてようやく悟った。
ぼくが「お父さん」と呼ばれたのだと。
平成も残すところあと5日。
思えば喜びや悲しみが、弥次郎兵衛のように、右へ左へと揺れた31年だった。

笑って泣いてまた笑いさえすれば、それでいい。
弥次郎兵衛は、どんなに大きく悲しみの方へと振れたにせよ、少しずつ少しずつ、振り幅を狭め喜びと悲しみの中間点でいつかは必ず静止する。
新たなる「令和」の世も、どうか穏やかな笑顔の似合う時代であれ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

オカダさん・・
もう⤴おじいさんに、なっていたりして?
それはそれで嬉しいでしょう!
でも、当たり前の事ですから・・
オカダさんが孫を抱く姿って、想像出来ないねぇ!
シンガーソングライター
ギターを抱かずに孫を抱くってねぇ!
これまた上手い事を仰いますねぇ。
しかし、残念!
今年春に予定されていた娘の結婚式は、ご多分に漏れずコロナで延期。
でも二人が何より仲良くいてくれれば、それが一番ですからねぇ。
とは言えまだお目出度ではないようですよ。
『 令和 』 まだ自分の中では浸透してないですね。それに 誰もがベールを一枚羽織った状態だから余計にそう思うのかも知れません。
先日の朝ドラの中で「 人は傷つく必要なんてない。どんな人でもいるだけでいい。」というセリフがあり 妙に印象に残ってます。
なんでコロナなんかで死ななきゃいけないんだ!って毎日思ってて。
笑って泣いてまた笑ってさえいれば…
そう!
生きてそれが出来れば それだけで充分なのだ!
その通りですよねぇ!
「今泣いた烏がもう笑う」。
なんだかんだと言ったって、それでいいんじゃないでしょうか?
心も震えて眠れない夜が何度も続き人生何があるか分からないと思った平成。そして今、誰しもこんな世の中になるなんて思ってもみなかった令和。まだまだ、人生は何があるか分からんねぇ。でも踏ん張っていきなきゃ、この先に楽しい事が待ってるって信じて⤴️
人生なんて、ってぼくが言うのもおこがましすぎますが、99個の愁いとたった1個の喜びで構成されているようなものなんじゃないでしょうか?
99個の愁いがあったればこそ、たった1個の喜びが輝きを放つのかも知れませんよねぇ。
人生は1%のよろこびでしかないと、私も思います。それでいいと思います。
だからこそ、ひときわ輝くんですものねぇ。