母の遺品整理の途中、妙な形の女物の下駄を見つけた。
両親だけが暮らす家だから、それは取りも直さず母のものだ。
しかし右の歯が左の歯の、3倍もの高さである。

「この下駄って?」と父に問うた。
すると「去年病気になる、ちょっと前のことやったわ。どうしても故郷鹿児島へ、ご先祖さんの墓参り兼ねて、連れて行って欲しいと言い出してな」。
父は新聞広告で探した格安ツアーで、母を伴い2泊3日の旅に出たと言う。
なぜそんな水臭い…。
父はそんなぼくの心を見透かしたのか、「お母ちゃんが、お前に余計な心配かけたないって、そう言い張ったんや」。
父が記念写真を広げた。
澄んだ真っ青な空と錦江湾。
微かに噴煙を上げる桜島。

そして何より、年老いた両親の晴れやかな笑顔。
「あっ!」。
思わず一枚の写真に釘付けとなった。
「ちょうどホテルの近くで盆踊りがあってなあ」と父。
そこには、ホテル名の染め抜かれた浴衣姿の母が、輪踊りの一角で踊っていた!
「ホテルの窓から、『♪花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島♪』って聞こえてきたんや。そしたらお母ちゃんが、急に踊りたいと。まあ浴衣は、ホテルの寝間着で間に合わせるとしても、下駄がいるやろ。それで慌てて下駄屋へ駈け込んで、無理言って右の歯だけ高こうしてもうたんや」。

それで全ての合点がいった。
母は戦時中、学校の階段から転げ落ち、その弾みで右足を骨折。
しかし時節柄、満足な治療も受けず仕舞。
それがもとで亡くなる前には、歩くにも不自由なくらい右足が縮み、左右の落差も広がった。
「お母ちゃん、知っとったんやぞ。自分が後どれだけしか生きられんと。まだ足の落差が少なかった頃は、よう盆踊りに通ったもんや。だからおはら節が聞こえた途端、もう居ても立ってもおられんかったんやろ。今思や、それが最初で最後の、お母ちゃんのささやかなわがままやったわ」。
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オカダさんって!
踊りは、どうも苦手で・・って言ってるけど
お母さんの血をひいているから・・
きっと上手に踊れるんじゃないですか?
多分?やれば出来るタイプかも?
私は子供の頃に小学校の校庭で夏休み盆踊り大会があって
一応、見よう見真似で踊ってみたものの・・
子供心に悟りました。
「ダメだこりゃ~ぁ⤴」
いやいやぁ、それが!
ぼくもまったく落ち武者殿と一緒の、踊り下手です。
ディスコだって若かりし頃、友人に誘われて2度か3度ほど行ったことがありましたが、ホールの壁際で飲んでいるだけで、まったくダンスフロアーには足を踏み入れられませんでしたぁ(汗)
ダンスと盆踊りはステップやリズムが全然違うので ゆったりしたリズムの
郡上踊りなら 大丈夫かも? ですよ
(◠‿・)—☆
ビールを ぷっファ〰〰 と 2、3杯ひっかけ レッツ・ゴー !!!!
そういえば 父親が盆踊りをしている姿見た事 無かった〰 (˘・_・˘)
最近 おしゃれ優先の女子は浴衣にも下駄ではなく サンダル が流行りだとか(ʘ言ʘ╬)
えええ~っ、浴衣にはやっぱり下駄じゃなきゃ、サンダルだと何だか興覚めですねぇ。
やっぱりカランコロンと下駄を鳴らして漫ろ歩いたり踊ったりじゃなきゃ!
失礼かも知れないけど…
ん〜なんだか素敵です。
歯の高さの違う下駄、故郷での盆踊り、夫婦の旅、ささやかなわがまま。
同じ女性として母親として その時の心情を想像してしまいました。
きっと優しい表情で且つ凛とした姿で踊ってらしたんでしょうね。
両親の結婚は、昭和31年12月23日でした。
その年は、『経済白書』の序文に書かれた一節「もはや戦後ではない」が流行語になったそうですが、きっと貧しかった両親にとって満足な新婚旅行は出来なかったと思います。
ですからきっと晩年の夫婦二人旅は、それなりに感慨深いものだった気がします。
オカダさんの目と記憶により、僕もあたたかい気持ちにさせていただきます。ありがとうございます。僭越ですが、たとえ経済的に潤沢でなかったにせよご両親さまがとても仲が良かったのですね。幸せを感じます。
想い返せば、そこそこ両親は仲が良かったように思います。
いつもお父ちゃんがお母ちゃんの言いなりで!
「そやなぁ」「それでええ」って感じで、お母ちゃんも頼っていたように思います。
一度たりと、お母ちゃんが作った食事を「不味い」とか「塩辛い」などと、文句を口にせず「美味い、美味い」とそればかり言っていたものです。