昭和がらくた文庫4話(2011.5.26新聞掲載)~戦後初の超ベストセラー「日米會話手帳」

1億の民がラジオの前で、陛下の玉音に初めて触れ、項垂れ、そして涙した、昭和20年年8月15日のあの日。

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だが、小川菊松だけは違っていた。

出先の千葉で玉音に接すると、急ぎ都内へ取って返したという。

それから一月が過ぎた9月15日。

小川が企画した「日米會話手帳」が、科学教材社から出版された。

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四六半裁判(縦約10センチ、横約13センチ)、32ページ、定価80銭。わずか3ヶ月でで、360万部を売り尽した。

誰もが食うだけでやっとの時代に。

当時の人口はおよそ7200万人。

老若男女を問わず、20人に一人が手にした勘定となる。

当時のゴールデンバットが一箱35銭。

それと比べれば、決して安くはない代物だ。

それでも多くの人々は、空腹と引き替えにこの手帳を手にした。

表紙を捲ると目次の次に「有難うArigato Thank you! サンキュー」と、日本語・ローマ字・英語・カタカナ読みの順に表記され、日常会話、買い物、道の尋ね方までの3章で構成されている。(資料協力/林哲夫氏)

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終戦を境に価値観が一変する中、昨日までの敵性語は、今日を行き抜く道具となった。

だから「ギブ・ミー・チョコレート」や、「パパママ ピカドンでハングリーハングリー」さえ、瞬く間に子どもたちにも伝播した。

今日(こんにち)のように「ちょっと家族でハワイへ」などと言う、お気楽な時代が訪れようとは、誰も努々(ゆめゆめ)思いもしなかった敗戦間もないころ。

きっと誰の目にも世界は、呆れ返るほど遠くに見えたに違いない。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「昭和がらくた文庫4話(2011.5.26新聞掲載)~戦後初の超ベストセラー「日米會話手帳」」への8件のフィードバック

  1. 今、思うとさぁ!
    英語、もっと勉強すれば良かった!
    最近のアスリートで海外で活躍する選手は英語でインタビューに答えているから
    凄いと思うねぇ!
    私なんぞ、国際人だけど、全く英語なんて話せないし書けない・・
    もっと世界に羽ばたかないといけないから英語の勉強するか?
    止めとこ、年寄りの冷や水だぁ~ねぇ!

    1. ある通訳の方が言ってましたが、英語で夢を見ると、その後なんの怖さも無くなって、英語をしゃべっちゃってたそうですよぉ。

  2. 以前、友達と行ったバスツアーのガイドさんが『肯定力のある人は勝つ』と言う話をしてくれました。その内容が本当の事なのかは定かではありませんが「なるほど!」と感動した覚えがあります。

    1. 肯定力があるってことは、ある意味変わり身の早さ何でしょうかねぇ。

    1. 確かに、日本の近現代庶民史ですよねぇ。
      時代を生き抜こうとするエネルギーは、とんでもなくパワフルなものですねぇ。

  3. 物凄いスピードでの出版!
    人々は どんな想いで手帳を手にしたんだろう。何事も 必要に迫られたり目的があったりすると 吸収する力は半端ないですよね。
    中学生で初めて習った英語は ただ単純に覚えなきゃ…って感じで 英検を受験したりしたけど 今では…(大笑)
    でも 何かを始めるのに ” 遅い ” なんてことはないのだ。
    何にしようかなぁ〜( ◠‿◠ )

    1. あんな小さな小冊子に収められたわずかばかりの生活英語であったにせよ、忌まわしい戦争から解き放たれた人々は、とっても大きな世界観を感じたんじゃないでしょうかねぇ。

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