今日の「天職人」は、三重県名張市上小波田の「火縄職人」。(平成23年10月8日毎日新聞掲載)
八坂神社の賑わいは をけら詣りと除夜の鐘 揺れる灯篭御神火を 火縄に燈し幸あれと 火縄回して家路ゆく ありがたき火を消さぬよに 竃に白朮火移し入れ 雑煮が煮えりゃ初日の出
三重県名張市上小波田の火縄職人、岩崎筧一さんを訪ねた。

平成の世に、今もひっそりと、青竹の火縄を作り続ける老人がいる。
戦国の天下取りは、火縄銃で乱世を平らげた。
江戸の太平には、芝居小屋で、煙草の火点けにも用いられたとか。
「明治になると、今度は海軍の水兵さんらが、弾除けやゆうて火縄で腹を巻いたんやと。昔はここの集落50軒の、半分の家が火縄を作りよった。ところうが作る端から『まっとないか』ちゅうてな。そりゃもう忙してかなんだそや」。筧一さんが、薄く削いだ竹を綯いながら笑った。
筧一さんは昭和3(1928)年、6人兄弟の長男として誕生。
「江戸時代の初め、大池が決壊してもうて、田んぼはみな壊滅やさ。それを見かねた藤堂藩が、川沿いに竹を植えよゆうたんが、火縄作りの始まりや」。
今でも上小波田の火縄は、水をかけねば強風にも消えぬ火縄として重宝される。
各地の祭りで披露される、火縄銃の実演用として。
また、京都八坂神社大晦日の風物詩「をけら詣り」。


灯篭から火縄に移した「白朮火」を、ぐるぐる回しながら家へと持ち帰り、元日の雑煮を炊く種火として使われている。

昭和17年、尋常高等小学校を出ると、わずか14歳にして横浜の魚雷製作所で、時限発火装置作りに明け暮れた。
「ところが翌年の空襲で、工場が丸焼けにされてもうてな。しょうないで防衛隊に入ったんさ。えっ?防衛隊ゆうたら、兵隊の卵やがな」。
昭和20年の春には帰省し、農作業に従事。
昭和28年、近在から恵美子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。
「火縄をなろたんは、27歳ころやったろか。ある程度は、爺さんや親父から、子どもの頃に手伝いさせられ知っとったし。でも後の難しいとこは、見て覚えやんとできやん」。
一端の火縄職人までに10年を要した。

火縄作りは、12月から春の彼岸まで。
「ぬくなると竹に水が回って、縄にならんし黒うなる」。
まず真竹の切り出し。

「竹は陰へと入れとくんやさ。陽に当てると、かと(硬く)なるで」。
それを節から節で切り落とし、専用の鉈で縦に幅2センチほどに削ぎ落とす。
「それをのう(綯う)たら縒り掛けやさ」。
竹筒の片側から火縄を通し、先端を竹の棒に突き刺し、直径1センチほどに縒る。
「それをメンザメ(雌サメ)の皮で、縄の表面を磨いて髭をとったるんや。でもオン(雄)はあかん。肌があろてかなん(荒く適わん)で」。
すると長さ約3・3メートルの真っ白な火縄が誕生する。
「雨に当らん限り、火がついたら消えやん。せやで戦国の鉄砲隊は、雨降ると弾撃てやんで休戦やったそうや」。
上小波田の火縄作りも、今やたったの2軒だけだ。
「もう日本でここだけ。でも2軒とも跡取りがおらんで、直に火縄の火も消えてのうなってくわ」。
筧一さんは寂しげに作業場を見渡した。
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もう随分前の事ですが、目的地の途中でお祭りを見かけ『火縄銃の実演』の文字が目に入って来ました。そんな機会は中々無いので立ち寄って見学しましたが、ド迫力に感激⤴️
『火縄銃の実演』をご覧になられるとは、なかなか絶好の機会を見逃されませんでしたねぇ!
「火縄」職人さん
ビックリ!こういった、仕事があるとは・・
なんでも、そうだと思いますが、「継続」する事の難しさ!
オカダさんもブログを継続して行くのは大変だと思いますが
オカミノファミリーの皆さんの為にも・・
これからもどうか宜しくお願いします。
最近、自分で言うのもなんですが
コメント真面目だと思う!
少しは大人になったのか?
いやいや、いまさら大人になっただなんて、そりゃあ無理がありますって!
だってもう、押しも押されもせぬ、立派なご高齢なんですもの。
あっ、ぼくだってやがてゆく道かぁ。
火縄作り…
今回もまた気付きの大切さが身に染みた気がします。
をけら詣りや火縄銃の実演の時 毎回 火縄は当たり前のようにあるわけで… でも メインは違う。
日本で火縄作りが たったの2軒。跡取りもいない。細い火縄なのに 物凄く縁の下の力持ち的存在。
その事に気付かないと 大切な行事が。
どうなっちゃうのかなぁ
黒子の縁の下の力持ちって、どんな世界にも存在していて、ひっそりとスポットライトを浴びる主人公を下支えしているんですものねぇ。