「天職一芸~あの日のPoem 415」

今日の「天職人」は、岐阜市大福町の「映画看板絵師」。(平成23年4月23日毎日新聞掲載)

駅前ビルの灯が燈りゃ 映画スターの看板が           眩いほどに浮かび出で バス待つぼくを魅了する         清楚可憐なヘプバーン ぼくはペックになりきって        ベスパ代わりの自転車を 飛ばす凸凹帰り道

岐阜市大福町で昭和33(1958)年創業の美工社。映画看板絵師の大前みつぎさんを訪ねた。

写真は参考

「まだ若い頃、ポルノ映画の裸の看板を描いとった時なんて、何か胸がドキドキしてまって。親方からは、『胸をもっと大きくしたれ』とか冷やかされるし」。貢さんが、懐かしそうに倉庫の中の古い看板に目をやった。

貢さんは昭和33年に飛騨金山の兼業農家で、3人兄弟の末子として誕生。

「子どもの頃から絵が好きで、写生大会が待遠しかった」。

中学を出ると、糸貫町の寮に一人住まいし、家具製造会社に勤務。

「家具職人を目指したんやけど、毎日単純作業の繰り返しで」。

昭和45年、知人の紹介で美工社の門を叩いた。

「看板でも何でも、とにかく手作りがしたくて。そしたらいきなり『描け』って言われて文字書きから。しばらくすると、今度は縁取られた絵の中を、塗り絵みたいに色付けやわ」。

一つの仕事をこなすと、直ぐに次の仕事が与えられた。

切り抜き看板用に、ベニヤ板を糸鋸で切り抜き、ザラ半紙を貼って桟を裏打ちしたり。

そんな下回し仕事の日々が続いた。

「初めて一人で映画看板を描いたのは、絵師の職人が辞めた昭和55年頃やったかな」。

看板絵師としての初作品は、縦1.8メートル、横2.7メートルの巨大なキャンバスが舞台。

写真は参考

交通量の多い環状線に掲げられる屋外看板だった。

「忘れもせんなあ。沖縄が舞台の映画『マリリンに逢いたい』やった」。

貢さんは懐かしげに表通りを見やった。

「夜暗くなってから会社へ出て、看板のトタン板をまず真っ白く塗って。そこへポスターの図柄を幻灯機で拡大し、映し出しといて下書きや。塗り始めるのは、翌日になってからやね。看板はポスターと違って、遠目で見たり下から見上げても、どこから眺めたって目線が合うよう、モデルの目を強調して描かんといかん。それに陰影付けて肌の立体感を出したり。描いとる手元を見ると、『なんじゃあ』ってな感じでも、看板にして上の方へ掲げて見ると『ウワッ!』となるもんやて」。

時には見本のポスターの構図を変更し、人物の間隔を詰めたり、より効果的になるよう人物の配置も入れ替えたり。

どれも絵師の裁量の一つだ。

「だんだん手描き看板が減って、平成12年頃には1週間で1作品くらいやったろか。それでも昔は映画館も5館あったで、次から次へと描き換えて。あの頃は、2本立て3本立てなんてざらやったし」。

自分が描いた映画は、欠かさず観たという。

「最近柳ヶ瀬のロイヤル劇場が、懐かしの名画を上映するようになって。10年も筆置いたままやったけど、また昔ながらの手描きを、させてもらっとるんやて」。

自分の描く女優に恋し続けた看板絵師。

まるで昔の恋人と、再び巡り逢ったように微笑んで見せた。

ポスターの写真と、一味違う手描き看板。

味わい深さは、筆先に託す絵師の想いの一刷けか。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 415」」への11件のフィードバック

  1. 「天職一芸〜あの日のpoem 415」
    「映画看板絵師」
    映画館に掲げられた看板を
    遠い昔に見た覚えがあります。
    独自の手法だったんですね。
    「懐かしいです。」と言いながら
    ついこないだのように感じます。

    1. 本当に大きな看板に、銀幕のスターたちが見事なタッチで描かれていましたよねぇ。

  2. 懐かしいなぁ~⤴
    そうそう、昔は旧作が3本立て
    流石に3本観ると、ドォ~~っと疲れが・・
    朝一番に入って、昼食は館内に売り子さんが来るので
    「あんぱん、牛乳」
    エエ時代やった!もうあんな時代はこんやろな~~ぁ⤴

    1. やっぱり家のソファーで寝っ転がって、録画してあったビデオを3本立てで見るのとは大違いでしたよねぇ。
      「お煎にキャラメル~ッ」って、薄暗い館内を売り歩くオッチャンの声が懐かしいものです。

  3. 子供がね、写生をしている子たちを見て「お兄ちゃんたちはいいよね、ぬり絵だから!」って言ったのですよぉ。なンの事かなぁと思ったら、鉛筆で描いた下絵に色を塗っている姿が、どうも『ぬり絵』に見えたらしくて、思わず笑えてきた懐かしい思い出話しだす。

    1. 確かに!
      それも立派な塗り絵にゃあ違いない!
      下絵が印刷か、自分の手書きの鉛筆デッサンかが違うだけで!

  4. 看板絵師さん
    わたしの会社の取引先
    大須の橘町だったかな?
    神社前に
    看板屋さんあって
    なんかいつも行くと
    テレビなんかのつかう大道具看板やらあったな
    今は世代交代して工事看板作ってるけど
    なんか
    神社が斜め前にあったような

    1. そりゃああったかもねぇ!
      その昔々は、大須の辺りにゃ芝居小屋が数々あったようだから、その名残ってぇ訳じゃないだろうけどねぇ。
      それに40年ほど前までは、地元TV局でもドラマを制作していて、ドラマ班の中に大道具さんやら小道具さんやらがいらっしゃったわけだから、中区橘町辺りの看板屋さんならTV局にも近いから、そんな仕事もあったんだろうねぇ。

      1. そうなんですよね
        メ~テレもあるし
        中に入ると
        作業場異様に屋根高いし
        なんかどでかい看板あったし

  5. 懐かしいなぁ〜。
    昔は 当たり前のように眺めてました。
    なんの違和感もなく…。
    確かに写真のような看板は とってもきれいだけど 手描きのほうが 飛び出す絵本みたいに奥行きがあるし迫力も。
    映画を見た時の感動が増しそう( ◠‿◠ )

    1. ぼくは子どもの頃、カブスカウトの帰り道。
      今のミッドランドの前にあった、名古屋駅前のバス停でバスを待っている間、毎日ビルの壁面に掲げられた封切映画の手書き看板を、よく眺めていたものです。

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