「天職一芸~あの日のPoem 400」

今日の「天職人」は、岐阜市玉宮町の「百貨店主」。(平成22年12月25日毎日新聞掲載)

小さな頃のクリスマス イヴの靴下枕元             サンタ見たさに寝たふりが 何時の間にやら高鼾(たかいびき)         あっと気が付きゃ靴下に 見覚えのある包装紙         「サンタの町も同じ名の 百貨店でもあるんやろ」

岐阜市玉宮町で昭和41(1966)年創業の富士屋デパート。創業者の竹中一二三さんを訪ねた。

子どもの頃、父の給料後の日曜が待遠しかった。

朝から余所行きに着替え、駅前のデパートへ。

お目当ては、屋上遊園の乗り物と、大食堂のお子様ランチだ。

写真は参考

「家のデパートは、屋上遊園やなしに屋上菜園やて」。一二三さんの言葉通り屋上には、野菜や果物が所狭しと植えられている。

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一二三さんは昭和11(1936)年、本巣町の農家で7人兄弟の3男坊として誕生。

中学を出ると、名古屋のメリヤス問屋で小僧に。

写真は参考

「しばらくすると、関東の得意先を巡る出張やわ。そしたら群馬の高崎市に、富士屋洋品店ってえのがあって、よう流行(はや)る繁盛店やった。そこの社長に、『何でこんなに流行るんや』って聞いたら、東京へ直接仕入れに出掛け、いいもんを安売るでだと教えられて」。

それならばと、「田舎から5万、友人から5万、自分のなけなしの貯金叩いて5万。全部で15万で、デパートの前身となる富士屋メリヤスを昭和33年に開業したんやて」。

中々抜け目の無い一二三さんは、高崎から嫁まで持ち帰った。

この年、靖子さんと結ばれやがて三男一女が誕生。

「これが富士屋洋品店で販売しとったんやて。そしたら見初められてまって」。一二三さんは、妻に聞こえぬよう声を潜めた。

恐らく眉唾物だろう。

一二三さん21歳、靖子さん19歳の人生の船出と、独立開業という商売の船出でもあった。

「開店したらとにかく売れて売れて。レジに客が行列してまって、段ボールに金を放り込んどったて」。

毎朝7時から深夜0時まで、高度経済成長と歩調を合わせ、若い夫婦は働き詰めの毎日に追われた。

「その内に『あれはないか?これはないか?』って言われるようになって。無いって言うのが癪に障るで、『よおし、30分待っとってくりょ。その間に探して来たるで』って。気がつくと、タバコ、酒類、切手、米穀の販売許可も取ってまっとって、だったら富士屋メリヤスやなしに、何でも扱えるようにデパートにしたろまいって」。

昭和41年、富士屋デパートが誕生した。

開店初日の式典では、クス玉の中から本物のニワトリが10羽も飛び出し大騒動。

あまりの人出にパトカー4台が駆け付け、警官20名が警備にあたる物々しさ。

「ここで商売始めて創めてはや52年。お客さんが『昔からパンツはここのんに決まっとる。他所のパンツじゃあかん』って言ってくれるのが一番やて」。

ここには、洒落たデパートと違い、ショーウィンドーやブランド物などない。

1階売り場の一等地には、レジと開けっ広げな事務所が居座る。

壁には孫が書いた習字が翻り、生鮮食品から日用雑貨に、肌着と何でもあり。

だから庶民の百貨店。

「てぇげえ、何がどこにあるかなんて、誰もわからんて。わし以外はな」。

夫婦共白髪で生涯現役を貫く、天晴れ岐阜の萬商人。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 400」」への10件のフィードバック

    1. 確かに仰る通り!
      何がどこにあるのやら?
      自分自身、何が欲しくって何を探しているのかさえも、忘れてしまう程です。

  1. 富士屋デパート
    懐かし~~⤴ありましたねぇ!
    店には入った事がありませんが、店の前はちょくちょく通ってました。
    古き良き昭和の時代ですねぇ!
    話変わりますが、小学校の入学式も終わり、ピッカピカの新一年生
    私の子供時代、通学時に集団登校なんてなかった!
    当時の通学路はアスファルト舗装なんてされていなくて砂利道で
    ポケットに手突っこんで、石を蹴りながら登校していた。
    朝、ウォーキングしていて小学生を見てそんな事を思う・・
    今日この頃でした。

    1. ぼくの通学路は、田んぼの中の畦道をゆくコースでした。
      だからぼくは、小石を蹴っ飛ばしたりする代わりに、畦道の端っこに生えている草を、靴の爪先で薙いで歩いたものです。
      すると蛙がビックリして、次々に水の張られた田んぼの中へ、ピョンピョンと逃げ惑う!

  2. 懐かしいなぁ〜。
    写真を見て 当時の思い出が走馬灯のように…( ◠‿◠ )
    幼少期の頃 月に1回連れて行ってもらった刈谷銀座アーケード街にある表屋ビル。しっかり覚えているのが 最上階にあるレストランでお子様ランチを食べた事と屋上遊園で遊んだ事!あと 記念メダル販売機で名前や日付を入れたメダルを手にした事。ガチャンガチャンと大きな音がしてたような…。
    アーケード街も賑わってましたよ。
    もう今では跡形もなく 近代化された風景ばかりで 見るとちょっぴり寂しくなりますね。

    1. 記憶の中にある昭和時代の街並みや風景って、いくつになってもそっと目を閉じると、総天然色で蘇ってくれるから、不思議でならないものです。
      おまけに当時の匂いまで感じられるようで。
      それだけ愛すべき時代であったのでしょうね。
      例え今より不便で貧しかったにせよ!

  3. 地元、多治見にもあったなー、こういう地元のデパート。エスカレーターやエレベーターに初めて乗ったのもアオヤマ{という名前でした}でした。今は取り壊されて、パチンコ店になっています。

    1. やっぱり各地にそんな、デパートならぬ「百貨店」ってぇのが、それなりに存在していたんですねぇ。
      行って見たかったなぁ!

  4. ❖ 富士屋デパートさん ❖ 

    先日 自転車で前を通った時は 体操服や赤白帽子に上靴 その横には 新玉ねぎやニンジンが ??  
    もう少ししたら 筍も (((;ꏿ_ꏿ;)))
    ちょっと不思議な感じ でも楽しい
    ( ◜‿◝ )♡

    幼少の頃は 新岐阜百貨店やまるぶつがあり、屋上には遊園地 ありましたね ❣️
      

    1. 銀座の一等地の煌びやかなショーウィンドーを眺めると、ついついため息が出ちゃいますが、こうした町の中の百貨店のショーウィンドーならぬ店先を眺めると、季節感が感じられ、庶民が力強く生きている息吹が感じられるようです。

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