今日の「天職人」は、岐阜県郡上市八幡町の「メロンパン職人」。(平成22年2月10日毎日新聞掲載)
郡上八幡小駄良川 窓を開ければ水音と パンの香りが忍び込む 昼時岸の向こうから 老いた夫婦のパン屋では 子らが群がり品定め 片手の小銭差し出して 「これちょうだい」とメロンパン
岐阜県郡上市八幡町の平和パン、主の加藤昌美さんと千代子さん夫妻を訪ねた。

郡上八幡の町中を、南北に流れる小駄良川。
川西の山裾には、わずかに昭和半ばの商店が残る。
「……?」。
どこからかパンの焼ける匂いが漂って来た。
だがどこにもパン屋はない。
すると一軒の民家から、パンを片手に子どもたちが飛び出して来た!
ガラスの引戸から中を覗けば、確かにパンが並んでいる。
「これどうぞ。今焼き上がったばっかやで」。
共白髪の老夫婦が、こんがりキツネ色に筋の入ったメロンパンを差し出した。

だが、どこにも屋号の看板が見当たらない。
「そんなもん看板出すなんて、おこがましいでかんわ」と、夫。
すると「この人は昔っから『他人様を蹴っ飛ばしてでも儲けたる』っていう気がないんやて」と、妻。

「家が役所に届けとる本当の屋号は、三恵堂。でもここが尾崎町だでここらの人は『尾崎パン』とか『平和パン』って呼ばっせるわ。まあどれも通じるで、一つの名だけ看板上げるわけにもいかんだわ」と、夫。
昌美さんは大正10(1921)年、愛知県瀬戸市に誕生。
「小学校に入った昭和3(1928)年の時だて。鶴舞公園の御大典奉祝名古屋博覧会を、見に連れてってもらったんだわ。そしたら敷島パンがテントでパン焼いとって、これがまたええ匂いなんだて。でも金が無いで買ってまえんでかんわ」。
中学を出ると家業に従事。
だがコーヒーカップや西洋皿を製造する家業は、戦況の悪化で輸出が揮わず廃業に。
昭和18年には、召集令状が届き、海軍陸戦隊として中国へと出征。
だが昭和21年2月には無事、復員を果たした。
それから2年後、名古屋で看護婦をしていた千代子さんと結婚。
やがて一男二女が誕生。
昌美さんは、タクシーやトラックの運転で、家族を支え戦後の混乱の世を渡り抜いた。
統制も解除した昭和26年。
名古屋でパン屋を開業していた戦友を訪ねた。
茶飲み話がてら、パン作りを見学していると、子どもの頃の鶴舞公園での記憶が甦った。
直ぐに瀬戸市の家へと戻り、平和への願いを込めて「平和パン」を見よう見真似で開業。
2年後には現在地へ。
「私の実家が隣りなんやて」と、妻が笑った。
以来、夫婦2人で焼き上げるメロンパンは、今も平和のシンボルとして町中で愛され続ける。

今は月水金の週3日、朝5時半から中ダネの仕込みが始まる。
1時間半の発酵後成形し、秘伝のメロンパンの皮を被せ、ホイロで2次発酵し焼成。
半世紀以上変わらぬ、甘いメロンパンの香が町中に溢れ出す。

「そうすると迎えの幼稚園から『パン屋のおじいちゃ~ん』って声がして。近所の人らからは『辞めてかんよ』って言われるもんで、まあちょっと死ねぇせんでかんわ」。
熟練のパン職人は、捏ね上げたばかりのパン生地のように、ほっこりとした笑顔を向けた。
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メロンパンの、甘い皮の部分は後のお楽しみに取っておいて 下のパンの所だけ先に食べるって食べ方した事なぁ〜い?
ああっ、ぼくそんな食べ方したこたぁありませんぜ!
「天職一芸〜あの日のpoem357」
「メロンパン職人」
うひょ うひょひょひょひょょょ
オカダさんのお応えに変な笑い方になってます。
メロンパン美味しいですもんね。
はまってしまってメロンパンしか食べない時がありました。
町にこんなにも素敵なパン屋さんがあったなら
幸せですよね。
昭和半ばの時代は、菓子パンをおやつに2~3個食べても、ちゃんと晩御飯もペロリと平らげちゃったものです。
菓子パンの中でもメロンパンは、王様のような存在でした。
見よう見真似でパン屋さん… 凄すぎる。
子供の頃の思い出と平和への祈り。
物凄い努力の賜物なんでしょうね。
またまた尊敬に値する人 発見!
ただ 私 メロンパンちと苦手なんです。ごめんなさ〜い。
パン屋のお爺ちゃんもお婆ちゃんも、町の人気者でしたもの。
お爺ちゃんなんて、ちょっと美人の奥さんがパンを買いに来ると、オマケだよってアンパンやクリームパンを袋にこっそり入れてあげたりしたものです。
ご無沙汰しております。郡上八幡のパン屋さん、かつてオカダさんにお伺いしたところ、御令息さんが跡を継がれるやに聞いておりました。以前にオカダさんの「長良川鉄道ゆるり旅」を拝読して、いいなあ、と思ったので行ってみたいなあと思ったのでした。もし、消息をご存知でしたら教えてください。
取材をした頃は、息子さんが会社勤めの定年後に、後を継ごうかなと仰っておられました。
しかしその5~6年後にお爺ちゃんが身罷られてしまいました。
ぼくも通夜の祭壇に向かい、焼香させていただきました。
それ以降どうやらお店は閉まったままのようです。