今日の「天職人」は、名古屋市緑区の「紋次郎いか職人」。(平成21年9月9日毎日新聞掲載)
笊を被って三度笠 風呂敷からげ棒の剣 父のつまみの烏賊ゲソを 竹串抜いて斜に咥え 母に買い物言い付かり ドラマを気取り紋次郎 関わりねぇ」と真似てみりゃ お調子者!」と大目玉
名古屋市緑区の一十珍海堂、二代目の山下秀彦さんを訪ねた。

子どもの頃の手っ取り早い駄賃稼ぎと言えば、ビールの空き瓶を酒屋に持ち込み、小銭を返金してもらうことだった。
確か、大瓶1本で5円ほど。
母からビール瓶を受け取ると、竹製の買い物籠に詰め込み、近くの酒屋を目指したものだ。
すると酒屋のおばちゃんも心得たもので、「ボク、お母さんのお手伝いか?こんな重いもん、よう一人で持って来たなあ」と。
瓶代にラムネ菓子を一つ添え、「ボクこれ、お駄賃やでな」と、おばちゃんはそう言いながら、坊ちゃん刈りの頭を撫で回した。
夕暮れの酒屋の片隅では、すっかり赤ら顔した大人たちがコップ酒を煽り、長い竹串に刺さったイカゲソに噛り付いていた。

その名も「紋次郎いか」。
昭和47(1972)年に大ヒットしたテレビドラマ「木枯らし紋次郎」の、長楊枝をヒントに、イカゲソの煮付けを串刺しにした、大ヒット商品である。

だから立ち飲みの大人たちも、食べ終えた長楊枝を斜に咥え、「あっしには、関わりのねぇこって」と、名台詞を真似たものだ。
そして勘定の段になるとそう嘯(うそぶ)き、周りの失笑を買った。
一世を風靡した紋次郎いかは、今も当時と変わらぬ1本20円のまま。
ただ時間だけが、いつしか37年もの月日を刻んだ。
「家業に戻って2年目でしたわ。テレビで紋次郎がブームになった頃で。工場にはイカの足だけ余っとるし、そんなら紋次郎にあやかって、長楊枝にゲソ刺して『紋次郎いか』と銘打って、売り出したろまい。きっと当るぞって。直ぐに商標も登録して。でも最初の3ヶ月ぐらいはぜんぜん売れんかってね。やっと4ヶ月目にボツボツ売れ出して。やれやれと思っとるうちに、年間1億本も売れる大ヒットだわ」。秀彦さんは、そう若き日を振り返った。
秀彦さんは昭和21年、4人兄弟の長男として誕生。
大学を出ると、東京築地で塩乾物の中卸問屋に住み込み、2年間の修行生活を送った。
「まだ在学中だった昭和42年だわ。知多でちりめんなんかを専門に扱う、塩乾問屋に勤めていた父が、一念発起で独立してこの店始めたもんで。やがては長男だで、後継がなかんし」。
昭和45年に修業を終え家業へ。
それから2年、「紋次郎いか」のアイデアが閃いた。
「昭和49年には大小20社ほどが、商標の『紋次郎いか』を、勝手に使う人気ぶりだわ」。何とも誇らしげだ。

紋次郎いか作りは、全国各地から真イカのゲソを仕入れ、天日に干すことに始まる。
次に10本の足を3・3・4本に切り分け、15㌢の竹串に軟骨の部分から刺す。
そして醤油・砂糖・味醂・甘味料に七味を加え、一煮立ちさせれば出来上がり。
紋次郎いかをあてに、立ち飲みのコップ酒。
それは、昭和に反映を築いた男たちの、明日へのささやかな贅沢だった。
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木枯らし紋次郎、懐かしいデスネ!小学生の頃、友達の家で見てた記憶があります。テーマ曲「誰かが風の中で」?だったかな。カッコイイ歌でしたね。そういえばこの紋次郎イカのパッケージ、当時毎日行ってた駄菓子屋さんで見た記憶が、、、。
でしょ!
昭和の駄菓子や文化にゃ、欠かすことの出来ない大ヒットしょうひんですよねぇ。
「天職一芸〜あの日のpoem336」
「紋次郎いか職人」
オカダさんの「天職一芸」を読んでいると物には商品にはひとつひとつ名前がある事を改めて知りその由来まで知る事が出来て「凄いなぁ〜」と思っています。
天神裏の八百屋さんでしか買えないと思っていた あのケースの中から出してもらって買った記憶がある物が商品が「紋次郎いか」と書いてあったと思うと
もの凄く驚いています。
噛めば噛むほどに美味しさが湧き出してきたものですよねぇ。
紋次郎いか! 美味しいんですよね。
食べ始めたら止まらなくなっちゃう(笑)
昔は おやつに… だったけど 今なら 写真のような立ち飲み屋さんで 隣にいる人と話しをしながら食べたいなぁ。
一本の紋次郎いかで、コップ酒2杯もあれば、ぼくなんてもう出来上がっちゃいそうです!
センベロ以下でも十分酔えちゃいますって!