今日の「天職人」は、三重県伊賀市上野の「伊賀餅匠」。(平成21年9月2日毎日新聞掲載)
腰の手拭い頬っ被(かむ)り 玩具の刀背に絡げ 王冠潰し手裏剣に いざ行け!少年伊賀忍者 遊び疲れて小腹空きゃ 抜き足差し足忍び足 水屋の中の伊賀餅を ちょいと摘んでドロロンパ
三重県伊賀市上野小玉町のかぎや餅店、十七代目の主、森啓太郎さんを訪ねた。

シャカシャカシャカ。
店の奥から何やら涼しげな音がする。

鋳物製のいかついかき氷機が、綿飴のような純白の氷を、規則正しく削り出していた。
透き通った半貫目の氷柱が動力で回り、取っ手を握った男は、微妙な力加減で、刃に当る氷を巧みに操る。

「このかき氷機も、もう55歳やで、じきに定年やさ」。啓太郎さんは、真っ白なかき氷の上に自家製の餡と白玉を載せ、抹茶のシロップをそっと落とした。
創業は遥か300有余年前とか。
「もともとは団子屋でしてな、伊賀餅は創業当時から伊賀の名物やったんさ」。
啓太郎さんは昭和10(1935)年、一人息子として生を受けた。
だがヨチヨチ歩きを始めたばかりの翌年、両親は流行り病に倒れこの世を去った。
さぞや無念であったろう。
「この町だけで10人のよう亡くなって。わずか1歳のことやったで、両親の顔も2枚きりの写真でしか、見たことも無いんやで。ましてや抱いてもうた記憶なんてなあ」。啓太郎さんの眼(まなこ)が、かすかに潤んだ。
その後、祖母と叔父叔母が暖簾を守り、幼い啓太郎さんの養育にあたった。
だが、日増しに戦火は拡大の一途へ。
ついには、唯一の男手であった叔父さえ招集に取られるはめに。
やがては物資も統制で底を尽き、半ば開店休業状態の日々が続いた。
昭和20年8月、玉音放送に涙しながらも、多くの庶民はそっと胸を撫で下ろしたことだろう。
戦後しばらくし、シベリア抑留から解放され、叔父が無事に復員。
女たちが必死で守り抜いた暖簾が、軒に揺れた。
昭和28年、啓太郎さんは高校を出ると、叔父に付き家業の菓子作りに打ち込んだ。
「将来あんな職業に就きたいとか、こんなことがしたいなんて、思いを巡らせたこともない。とにかくはよ家業継いで、世話かけた皆に少しでも恩返しせんとって、そればっかりやったんさ」。
昭和も30年代に入ると、庶民の暮らし向きも上向いた。

「昭和が終わりを迎えるまでの間は、そりゃあ忙して忙して。暮れに正月の餅搗き終わって、ちょっと休めるだけで、後は年中ほとんど無休。昔からよう皆に言われるんさ。『仕事、趣味とちゃうんか?』と」。
昭和40年、小学校の同級生だった淑恵(としえ)さんと結ばれ、一男一女を授かった。
300年続く庶民の味、伊賀餅作りは、上新粉と餅粉を、熱湯で耳朶ほどの固さにし、20分蒸し5分搗くことに始まる。
そして手で白玉に漉し餡を包み込み、食紅で着色した生米を5~6粒載せ、もう1度5分蒸し上げれば完了。

「もう歳往(としい)ってもてボロ雑巾みたいやけど、お客が待っとってくれるで気張らんと」。
老職人を支え続けた暖簾。
それは、幼い日に引き裂かれた、父母の記憶に繋がる、たった一つの忘れ形見だった。
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食紅で着色した生米部分が可愛いですねぇ⤴️
かぎや餅店さん、色んな物が置いてあっていいいい。買うのに迷いそう。
このお店の裏側が、先日アップした伊賀牛のコロッケ屋さんなんですよ!
ワァ〜なになに⁈ このお店!
建物も看板も店内も かなり歴史がありそうで ワクワクしちゃう( ◠‿◠ )
毎日通っちゃうなぁ〜。
伊賀餅って いが饅頭とは違うのかな?
見た目は ほぼ同じだけど 米粒の色や量(もっと多い) が違って 薄紅色・黄色・薄緑 この3色がセットになってます。西三河地方では 雛祭りの時期になると 昔は家庭で作られていて 今では店内に並んでます。
“おこしもの ” も一緒に並びます。
おこしものは 小学校で 必ず一度は作るんですよ( ◠‿◠ )
各地の郷土菓子って、各地のお祭りや風習と密接な関係があるようですよねぇ。