今日の「天職人」は、三重県伊勢市宮町の「乳母車籐編み職人」。(平成21年6月24四日毎日新聞掲載)
腰の曲がった婆さんが 飴色焼けの乳母車 キィーコキィーコと軋ませて 田植えの後の畦を行く 葉叢(はむら)を急に飛び出した 殿様蛙雨蛙 ポチャンポチャンと田の中へ 雨を請うのかゲーロゲロ
三重県伊勢市宮町、籐商(とうしょう)玉屋の二代目籐編み職人の玉村裕子さんを訪ねた。

「主人はいい腕持ってましてねぇ。何で死ぬ時に、腕だけ置いてってくれやんだんやろう。特に難しい舟形の乳母車編む時なんて、右へ左へと目も覚めるほどの手捌きやったんやさ」。裕子さんは、作業の手を止め、夫の形見でもある年季の入ったエンマ(ヤットコ)を見つめた。

裕子さんは昭和17(1942)年、松阪市で5人兄妹の次女として誕生。
名古屋の服飾専門学校を出ると、地元の百貨店で服飾デザインの職に就いた。
「女の子は手に職をつけやなあかんって、言われとったもんでな」。
昭和40年、知人の紹介で周郎(ちかお)さん(故人)と結ばれ、一男一女を授かった。
時代は高度経済成長真っ只中。
町中に子どもたちのハシャギ声や泣き声がこだまし、腕利き職人の夫は、意匠を凝らした豪華な乳母車の籐編みに追われ続けた。

やがて子育ても一段落すると、店の一部を使って籐編み教室を主宰。
しかし平成9年、夫は脳出血に倒れ、寝たきりの生活を余儀なくされた。
「籐編みに配達と商売全般、それに夫の介護と教室まで。今思うとようやったわ」。
籐を編み込む手を止め、壁に掲げられた在りし日の夫の遺影を見つめた。
矢来型の籐編み押し車(乳母車)の製造は、まず底板に桟を打ち付けることに始まる。
次に丸籐200本を底板の周りへ、剣山の針のように籐を立てて釘打ち。
そして底から皮籐で8㌢ほど腰編みし、一晩逆さにして水に浸す。
翌日、木型に丸籐1本で内側に縁(ふち)打ちし、木型と縦木地をエンマで組み、矢来に編み上げる。
途中8㌢ほど編み上げたところで、半分に割いた丸籐で横へ1回り帯入れ。
この手順を繰り返し、必要な深さへ。
矢来が上部まで組み上がると、外側を縁打ちし、型から外して皮籐で網代(あじろ)に縁巻きを施す。

籠が完成したら尺輪のスポークは銀色に、リムは黒色に塗り上げる。
次に押し棒の金具を取り付け、車台も黒く塗って組み立てへ。

「何でもみな、一人でせやんなんでなあ。ペンキ屋もやさ」。
最後は車台と籠の底板を割りピンで固定し、押し手を付け、押し棒を皮籐で編み上げ、尺輪を取り付ければ完成。

1台の製造に丸々3日が費やされる。
「昔は畑仕事や子のお守は、みなこの押し車や。丈夫やで籐が飴色に焼けても、20年のようは使えるで。今でも『どうしてもこれやないとあかん』って言われるお年寄りもおられるでなあ」。
「門前の小僧習わぬ経を読む」とやら。
裕子さんも夫に手解きを受けたわけではない。
ただ直向きに籐と向き合う夫に、寄り添い共に生きただけのこと。
だが裕子さんの心と体は、夫の指の運びを鮮明に留めていた。
夫唱婦随。
裕子さんは今日も籐を編む。
まるで記憶の中の夫に、語りかけるように。
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個人で使っている人は見かけなくなりましたが、今でも保育園のお散歩では見かけますよ。一度にたくさんの乳児さんを乗せられるもんね⤴️
乳母車の中に園児が立てば、4~5人くらいは乗れますものねぇ。
なにもかも一人でやってこられて…
尊敬しかないですね。
私… まだまだ足元にも及びません。
これからどうしていこう…と模索してる私としては グッと励みになった気がします。
また新しい場所に飛び込む日まで 頑張らねば( ◠‿◠ )
人それぞれの人生の道には、未知なることがてんこ盛りだと、先人が教えてくれているようです。
だから神様が、明日をもう一日用意して下さっているなら、思いのまま生きるだけです!
何年か前に、栄辺りをプラプラしていたら、写真のような懐かしい乳母車が売っていて暫く眺めていました。
昔は、お婆さんが孫を乗せて、八百屋さんで買った白菜とかも中に転がっていましたよね。今でもけっこう便利だと思います。暖かみと品もありますしね。
私も乗ってみたかったなぁ〜っ。
今、乗ったら押す人が大変!!!
なんせ安定感が抜群ですから、子どもも、それを押して歩くお婆ちゃんをも守ってくれるスグレモノですものねぇ。
しかし!
押しも押されもせぬオッチャンやオバチャンが乗っていたら!!!
お巡りさんの職質を受けちゃいそうですよねぇ。