今日の「天職人」は、岐阜市長良弁天町の「原爆アイス屋」。(平成21年5月16日毎日新聞掲載)
舟の篝火(かがりび)川を染め 風折烏帽子(かざおれえぼし)腰蓑(こしみの)の
鵜匠がホウホウ狩り下りゃ 長良の夏の幕が開く 蝉取り飽きりゃ川遊び ちょっと疲れて一休み 皆で小銭を寄せ集め 原爆アイス回し食い
岐阜市長良弁天町、大正時代創業の餅菓子・アイスクリームの松乃屋。四代目主の鬼頭孝幸さんを訪ねた。

鵜飼開きが初夏の訪れを告げる長良川。
長良川の北側には、昭和の名残が残る、古い町屋や商店が点在する。
半袖Tシャツ姿の親子連れが、餅菓子屋の暖簾を潜った。
「原爆アイス二つね」。
原爆?
アイス?
どうにもその不思議な取り合わせが気になる。
「はいお待ちどう」。

ガラスコップにステンレス製の持ち手が付いた器に、てんこ盛りのアイスクリームがデーン。
「あれは戦後に流行った、原爆アイスやて。ちょっとシャーベット状で、柳ヶ瀬なんかじゃ『爆弾アイス』って呼ばれとったらしいけど。戦時中の耐乏生活が終わり、ほんのちょっと暮らし向きも豊かになって、誰もが戦後復興の象徴みたいに、たまの贅沢を競うようにして、大盛りアイスを求めたらしいんやて。だから原爆アイスや爆弾アイスにしたって、名前は庶民が勝手に呼んだ愛称みたいなもん。もう二度と、愚かな戦争だけは繰り返したらかんって、代々語り継ぐようにと、そんな願いを込めて」。孝幸さんは、傍らの母を見つめ、念を押すようにそうつぶやいた。

孝幸さんは昭和40(1965)年、3人兄弟の次男として誕生。
「曽祖父が鵜匠さんの手伝いしながら、餅屋をやりかけたのが始まりなんやて。それから父が昭和25年頃に脱脂粉乳を使って、自家製のアイスクリームの製造を始めてたんやて。そしたらあの大盛りの原爆アイスが、飛ぶような売れ行きになって」。
孝幸さんは大学を卒業すると、和菓子職人を志し、他所の店で修業に入った。
平成15年、年老いた父が「力仕事もきついで、そろそろ家業を継いでつれんか」と。
家業に戻ると、家伝の味を引き継ぐ一方で、これまで身に付けた和菓子職人としての新たな技も注ぎ込んだ。
素朴で懐かしい原爆アイスの作り方は、脱脂粉乳、砂糖、練乳、増粘剤を、お湯で練る事に始まる。
次にそれを80℃に加熱し冷却へ。
続いて、バニラエッセンスや小豆、抹茶などを加え、フリーザーにかけて30分ほど練り上げ、容器に移して凍らせる。
そして再び常温に戻し、保冷庫の容器へと移し変える。
「後は持ち手のついた昔ながらのコップに、2.5カップほど豪快にアイスを盛り付ければ、原爆アイスの出来上がり」。

花火大会の夜は、花火帰りの原爆アイスを楽しみに、1000人以上の人が押し寄せる。
「進駐軍が旅館に駐留しとった頃は、米兵の子がよう来よった。その子らと身振り手振りで話すうちに、片言の英語を覚えてまったわ」。母が傍らで笑った。
戦後はや64年。
だが原爆症認定を訴え続ける人にとって、未だ戦争は終わっていない。
世界193カ国中、唯一の被爆国ながら、見事に復興を遂げ、世界に冠たる経済大国にまで伸し上がったと言うのに。
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わぁ〜、凄い!モコモコ、コップからアイスが溢れ出てる⤴️アイス大好きだから、今でも食べれちゃうかも、欲と道連れに(笑)
ぼく若い頃、レディーボーデンの大きなバケツのような大きなカップのものを、一度に食べたことがあって、その後がとにかく大変でしたぁ(汗)
原爆アイスをお店で食べ、家族へのお土産にアイスモナカを沢山買っていました。最後の包装は新聞紙で、家までちゃんと溶けていなかったです。
現在は柳ヶ瀬のツバメやさんの横でアイスモナカが食べられるようです。
最近、毎日が忙しく、葬儀の参列も続きヘナヘナになっていました。懐かしい事を思い出したら、ちょっと元気になりました。
懐かしさって、確かに楽しかったあの頃を思い出せ、元気印かもしれませんよねぇ。
ネーミング インパクトあり過ぎ。
でも このアイスが語り部となってるんでしょうね。
初めての方は 必ずアイスの向こう側にいらっしゃる職人さんに問いかけるでしょうから。
原爆は、何があってもどんなことになろうと、二度と使用することがあってはならないと、「原爆アイス」を食べながら考えたいものです!
今は凝リ過ぎた洋菓子店が多いけど、こんなご時世だから素朴な甘味処で優雅な気持ちに浸りたい気持ちです。
素朴な美味しさは、これでもかってほど味の足し算ばかりの洋菓子に、決して真似られないものではないでしょうか?
子供の頃の遊びで、原爆という名前の技があったのを思い出しました。空へ放り投げたドッジボールにボールを当てる、という遊びだったような。なぜそのような名称が付いたのかはわかりませんが、地面にボールを当てて4人で打ちあう「素手テニス」を、当時は元大中小{元帥・大将・中将・小将 の略}と呼んでいたので戦争の記憶がまだ身近にあったということなのでしょうか?
ぼくの子どもの頃は、まだ戦後20年ちょっとの頃でしたから、いろんな所に戦争の残骸のような言葉が残っていた気がします。
けっしてそれは誇らしい言葉ではなく、一兵卒として戦地に送り込まれ、やっとの思いで復員できた庶民にして見れば、戦争に関するすべてを嘲って使っていたように思えてなりません。
まったくもって家のお父ちゃんがその一人でしたもの。
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