今日の「天職人」は、愛知県常滑市大野町の大野名物「一口香(いっこうこう)」女将。(平成20年6月10日毎日新聞掲載)
知多の大野の駅を出りゃ 海を目指して一目散 波打ち際の砂浜にゃ 蛻の殻(もぬけのから)のシャツが舞う お握り食べて西瓜割り 疲れて母の膝枕 日暮れて父の土産にと 大野名物一口香
愛知県常滑市大野町で、百年以上に渡り大野名物「一口香」を作り続ける菓子処風月堂、三代目女将の西村和子さんを訪ねた。

「これは『ハチケ(球体状の干菓子の皮が弾け、中から黒砂糖の餡が飛び出し、干菓子の側面で模様のように焼き上がった不良品)』やけど、まずは一つ食べてみて」。和子さんが差し出した。
「そのまんま一口で含んで、唾に浸してからゆっくりと噛むんだよ」。女将の仰せに従うと、干菓子の硬い皮が口中の唾で和らぎ出し、中から飴状になった黒砂糖の仄かな甘味が忍び出でる。

何とも清楚で上品な味わいだ。
「このハチケの景色(模様)が好きだって、わざわざ買い求める風流人もおるんだに」。そう言い終えるよりも早く、女将はハチケを口の中へと放り込んだ。
和子さんは昭和25(1950)年、熊本県で会社員の長女として誕生。
高校に上がった年に、父の転勤で名古屋へ。
高校から看護学校を経て、20歳で看護婦として病院に勤務した。
その後昭和59(1984)年に治雄さんと結ばれ、一男一女を授かった。
「夫の叔父が病院の薬局長だったから、それで『菓子屋はどうや』って紹介されて。私自身、サラリーマンの専業主婦には納まり切れんとわかっとったし」。女将は店と作業場を分かつ暖簾を見つめ、照れ臭げに笑った。
一方の治雄さんは、昭和27(1952)年に次男として誕生。
地元の高校を出ると東京の製菓学校へ。
その後、岐阜市柳ヶ瀬の一流店で修業を積んだ。
しかし程なく祖父と母が相次ぎ他界。
家業に舞い戻り三代目を継いだ。
「一口香」の由来は、萬治2(1659)年に遡る。
時の尾張徳川二代藩主、徳川光友が潮湯治(海水浴)に訪れた際、庄屋が名産品の「芥子香(けしこう)」を献上したところ、一口で食べると何とも香ばしい味わいがすると絶賛し、以後「一口香」と称すようにと、その名を下賜されたとか。

いずれにせよ、350年以上昔のままの製法が、今尚受け継がれている素朴な逸品だ。
味わいも素朴なら製法もいたって簡素。
まずは麦芽飴を溶かしながら中力粉を加え生地に。
黒砂糖を餡にして、周りを生地で包み丸く一口大に形成する。
それをオーブンで焼き上げると、球体の中が空洞となり昔ながらの銘菓が完成する。
「最初、嫁に来た頃はよう泣いたからね。『明日作るぞ』って言われると、もう憂鬱で。だって中々生地を丸めるのに、言うこと聞いてくれんし。主人のは綺麗で丸いのに、私のは歪やもんで誰が作ったかなんて直ぐに分かってしまうんだわ。どれも分け隔てなく同じように作っとるつもりでもねぇ。だから私はもっぱらお客様相手が専門」。女将は明るく言い放った。
「それでも最近は、やっとバラつきも無くなって来たのよ」。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。
これまた上品なお菓子ですね。
最初 失礼ながら タマゴボーロに似てるって思っちゃいましたよ。
でも 中に黒砂糖の餡が入ってるとは。
どんな感じ? どんな感じ? ( ◠‿◠ )
柔らかい餡なのかなぁ?
黒砂糖だから きっと甘さ控えめでしょうね。
あ〜!気になる〜(笑)
黒砂糖の餡は、餡子のようなそれ自体が固形ではなく、外側の皮の部分に染み入っていたように記憶しています。
大野と聞くと日本で最初の海水浴場が開設されたことが印象にありますが、銘菓があるとは知りませんでした。幼い頃に新舞子でよく海水浴に行っていた頃とかなり変わりましたが、大野にも足を運んで散策してみたいです。
ぼくも幼い頃名鉄電車に揺られ、両親とご近所のお仲間たちと一緒に、新舞子へ海水浴に行ったことがあります。
一口香、食べた事あるけど常滑の物かは定かではありません。空洞部分があり変わってるお菓子で美味しかったような⤴️だって、黒糖好きだもん。
きっときっとその食感は、一口香だと思いますよ!
不思議な感覚ながら、妙に懐かしさが漂う、そんな逸品でしたもの。
今晩は。
・一口香(いっこうこう)女将のお話ですね。 ブログを、見て初めて知りました。
・一口香(いっこうこう)は、手作りなのですね。素朴な味なのですね。
昔ながらのお菓子良いですね。
リピーターさんが、いるのでしょうね。
美味しそうですね。
・私は、一口香を、実際に見た事が、有りません。