今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「アコーディオン弾き」。(平成十九年十二月十八日毎日新聞掲載)
ちょっとそこ行くお嬢さん 肩を落して項垂れちゃ 綺麗な顔も台無しだ 少し停まってお聴きなさい 失くした恋を悔やんでも 今更元へ戻れない ならば明日の出逢い期し ラブソングでも奏でましょう
愛知県岡崎市のアコーディオン奏者、杉浦多美夫さんを訪ねた。

「今のは霧島昇の『誰(たれ)か故郷を想わざる』だわ。あんたら知っとる?」。多美夫さんが問うた。
「この音色は、激動の昭和そのものだって。苦しくて辛い時代に、元気と勇気を与えくれただ」。
両肩から13㌔もある、自慢のアコーディオン「ホーナーゴラ」を軽々と下ろしながら笑った。
多美夫さんは昭和8(1933)年、石工を父に三人兄弟の次男として誕生。
両親は地元の石材会社に勤務し、家族を支えた。
ところが小学六年の年、父が急逝。
母の細腕を頼りに中学を卒業すると、母の勤める石材会社に入社。
夜学生として工業高校の定時制に通った。
「仕事を夕方で切り上げ、5㌔ほどテクテク歩いてくだわ」。
昭和24(1949)年、記念すべき初任給は2,000円。
夜学を終え一目散で家へと駆け戻り、月給袋ごと封も切らず母へと手渡した。
翌年、元プロ歌手津田二郎師の歌謡塾へ。
「週に1回30分のレッスンを受けに通ったもんだぁ。最初の25分間は発声や基礎練習。最後の5分で好きな歌を唄って、先生の指導を受けるだ」。
それから五年間で、NHKのど自慢へ26回も出場。
5回合格の鐘を鳴らした。
「当事はのど自慢ブームだったもんで、一曲50円もする楽譜を買って伊藤久男の『オロチョンの火祭り』を唄ったもんだって。でもあんな当事、色恋の歌はご法度だし、プロより上手く唄っても鐘は2回しか鳴らんだわ」。
三河各地で開催されるのど自慢会場を荒らし回った。
「その内、アコーディオンの音色に惹かれてまっただ」。

のど自慢荒しの傍ら昭和27(1952)年には、当事の給料の10倍にも当たる2万円でアコーディオンを購入。
「修学旅行の積み立て金を崩して、母親に1年分の小遣い前借りさせてまって」。寝る間も惜しみ独学で奏法を学んだ。
昭和31(1956)年、地元の仲間とタンゴバンドを結成。
仕事を終えるとキャバレー巡り。
「岡崎のキャバレー双竜へと、自転車に楽器積んで走ってくだぁ。石材屋の社長が苦労人で、普通だったら二束の草鞋を咎めるところが『お前は偉いなぁ。晩もバイトに精出して』って、逆に励まされただ」。
昭和35(1960)年、バンドで貯めた金を結婚資金に、職場で見初めた尚子さんに求婚し二女に恵まれた。
それから間も無く半世紀。
「父母もぼくも育ててもらった会社に、今は娘婿が勤めさせてもらっとるだ。親子三代に渡って。本当感謝せんとかんわ」。
多美夫さんは徐に愛器を抱き、左手で蛇腹を開いた。

腹一杯にアコーディオンが空気を吸い込み、せつなく物悲しい独特な音に、右手の四十一鍵でメロディーを奏でる。
日毎遠ざかる昭和半ばのセピア色の風景が、瞼の奥に広がっては消えて行く。
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アコーディオンと言ったら 横森良造さんでしょ!
小柄に見える方なのに 軽々と左右に波打つように演奏されてた印象が…。
中学生の頃 音楽室で一度だけ装着した事があるけど 重いのなんのって。それに あの蛇腹の部分を動かしたり 鍵盤を弾いたりと 一度にたくさんの事をしなきゃいけないから 物凄く大変!
不思議な楽器だなぁ〜と思った覚えがあります。
あの音色も独特な感じ。懐かしさに包まれる感じかな( ◠‿◠ )
ザ・昭和 ですよね!
アコーデオンやバンドネオンなんて、曲芸のような奏法ですよねぇ。
まったく!
不器用なぼくには、とても真似できそうにありません。
おはようございます。
・アコーディオン弾きのお話ですね。
・杉浦さんのど自慢に出ていたのですね。すごいですね。
・私は、実際にアコーディオン弾きを、見た事が有りません。 TVで、アコーディオンを、見た事有ります。
アコーディオン
最近TVでも観なくなりましたねぇ!
アコーディオンを演奏出来る人は、ピアノも弾けるんでしょうか?
楽器を演奏出来る人が羨ましい・・!
あたしなんかせいぜいリヤカーぐらいしかひけません!
早くコロナが落ち着きますように!
何をおっしゃいますやら!
ヤイリの素晴らしいギターを弾かれて、美熟女様を虜にされているじゃありませんか!!!