今日の「天職人」は、岐阜市金園町の「神輿職人」。(平成十九年十一月十三日毎日新聞掲載)
祭囃子と鱗雲 秋の実りを祝うよに 揃いの半被ワッショイと 神輿揺らして畦を行く 鎮守の杜の境内は 飲めや唄えの無礼講 炊き出し終えた母さんの 頬もほんのり紅葉色
岐阜市金園町の唐箕屋(とうみや)社寺工務店、三代目神輿職人の高崎勝則さんを訪ねた。

「日本人にとって祭りは、平和の象徴そのものなんやて。神輿担ぎながら皆で『今年もよう頑張ったなぁ』とか、『また来年まで頑張ろう』って。昔は町中の人らが総出で、氏神さんの御霊を入れた胴を担ぎ上げ、そうやって互いに励ましたり支え合ったりしたもんや」。勝則さんは、通りを隔て赤く色づき始めたばかりの金華山を見つめた。

勝則さんは昭和31(1956)年に後継ぎの一人っ子として誕生。
高校卒業後、工業専門学校に学び、4年間名古屋の設計事務所に勤務した。
「やがては家業を継がなかんで、奈良の鵤(いかるが)工舎で五年、社寺建築の修業をしたんやて」。
鵤工舎とは、天下にその名を馳せた宮大工、故西岡常一棟梁の一番弟子であった小川三夫氏が率いる匠集団。
勝則さんは兄弟子たちと寝食を共にした。
「最初の二年程は、兄弟子の飯炊きと賄いばっか。暇見つけては、刃物砥いだり削ってみたり切ったり。こっそり兄弟子の手付きを真似て覚えんるやて」。
先輩職人たちの技術だけではなく、同時に仕事に対する頑なな姿勢や心持までも身体に叩き込んだ。

「だって山ん中やし、晩は酒呑んどるか砥ぎ物しとるかだわさ」。
職人たちの道具や材料へのこだわりを、酒を酌み交わしながら夜毎学んだ。
「手の大きさや体格はまちまちやで、その職人の力量に応じて道具も工夫を重ねて作り上げるんやて」。

昭和59(1984)年、関市出身の理恵子さんを妻に迎え、翌年帰郷し父の元で家業に入り、二男一女を授かった。
神輿は下から順に、台輪、胴、井桁に組む担ぎ棒、屋根に分かれ、釘一本使わぬ木組みで固定される。
一方それぞれの部材は、塗師、飾り金具職人、箔押し職人、彫刻師といった専門職の手に委ねられ、神聖な神をお迎えする屋形へと姿を整える。
そして最後に鳳凰や宝珠の彫金細工を冠し、約四ヵ月の時を費やして完成。
一般的な神輿は、幅奥行き共に1.2㍍四方、高さ1.4~1.5㍍ほど。
中京型は、四方に紅白の伊達巻を飾り廻らせるものもある。
「15~16年前のバブル期がやっぱり最盛期やったて。企業や商店も皆お金がありあまっとった時代やったで。豪華さを競い合っとったでねぇ。それに比べて今は、神社の祭礼用や町内の氏神さんのお祭り用の神輿が中心やわ」。
中には年代物の神輿の修理も持ち込まれる。
「昔の神輿を修理させてもらうと、当事の職人たちの声が聞こえてくるみたいな気がするもんやて」。
勝則さんは、組み立てられたばかりの真新しい神輿を見つめた。
「祭り神輿は老若男女の楽しみの一つ。昔の元気を取り戻して、小粋に町を練り歩いて欲しいもんやて」。
元気を出してワッショイ!ワッショイ!
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。
まるで神にお仕えするようなお仕事ですね。
遠い昔から引き継がれた 釘一本使わない木組み。
その場にいる職人さんや神輿が 神々しく見えるのかも知れません。
今年は お神輿を担ぐ子供達の声が聞こえないのが残念です。
でも 昨日 神社のぼりが掲揚された中 宮司さん達が正面に向かって 一礼されてる姿を見かけました。それだけで なんだか厳かな気分になり 車内からペコリとしてしまった私です(笑)
分かりますとも!
ぼくもウォーキングの途中でお社の前を通るときは、手こそ合わせませんが、軽く頭を垂れますもの。
そうすると何だか気持ちが解れるのかいいですねぇ。
今晩は。
・神輿職人のお話ですね。
・神輿を、作る時に釘を、使わずに木を組み立てて作るなんてすごいですね。
・年代物の神輿が、持ち込んで修理の依頼が、有るのですね。神輿修理が出来る貴重な所ですね。
・今年はお祭り中止ですね。(子供神輿も中止ですね。)
神社は、イイよねぇ!本当!
今度、生まれて来る時は、仙人か神様がイイ⤴
閻魔様もイイかも?
絶対に!嫌なのは、黒光りする、逃げ足の素早いあの憎き「G」
まぁ~⤴好きな人は居ないでしょうけど・・
うん⤴待てよ!
生まれ変わる?そう言えば・・
確か?オカダさんのオリジナル曲
「もしも生まれ代われたなら」って名曲があったなぁ~⤴
うん~~⤴エエ歌やぁ~~⤴
これはこれは、ぼくの唄を宣伝いただき、誠に持ってありがとうございます。
たまにゃあ、いい仕事しますねぇ!