「天職一芸~あの日のPoem 243」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「保母」。(平成十九年七月十一日毎日新聞掲載)

黄色い帽子スモックの 君が廊下を駆け抜ける     行って来ますも投げやりに 心はとおに保育園      お迎えバスが口を開け 黄色い声が溢れ出す       迎えに降りた先生を 目掛けて君は一目散

三重県松阪市の市立第二保育園、園長の岡田通子(みちこ)さんを訪ねた。

住宅街の細い路地を抜けると、昭和の名残が漂う木造の学び舎(や)が姿を現した。

運動場の片隅の飼育小屋にはウサギが一羽。

園児が帰った後の運動場を寂しげに眺めている。

「小さい子が可愛いて可愛いて。小学生の頃、近所の子ら集めては、毎日保母さんごっこばっかり」。

通子さんは昭和二十七(1952)年、旧飯南郡飯南町で誕生。

高校を出ると名古屋の保育園に勤務。

保母を目指し勉強を続けた。

昭和四十七(1972)年に三重県保母試験に合格。

二十歳で旧飯南町立すみれ保育園の保母に。

「そこは私が通(かよ)とた保育園やったんさ」。

母校ならぬ母園に舞い戻り、保母のスタートを切った。

昭和四十九(1974)年、同町出身で同姓の晴夫さんとテニスの同好会で知り合い結婚。

やがて二男一女が誕生。

妻として母として、そして保母としての顔を使い分け、家事に子育て、そして仕事に追われながら九つの園を巡り歩いた。

「それがそうでもないんさ。妻も母も中途半端で。この人ともしょっちゅう喧嘩ばっかやさ」。通子さんは傍らの夫に目配せた。

我が子がやっと小学校へと上がった昭和五十八(1983)年、三十一歳の年にあやめ保育園の園長に就任。

「どんどん年上の人が辞めてかんして、若いもんに降りてきただけやさ」。

折りしも腹を痛めた我が子は小学校の低学年。

誰よりも母とのふれあいを求めていた時でもあった。

しかし妻と母の顔を犠牲に、仕事への責任を全うするだけで精一杯。

家庭と仕事の両立は、それほど簡単なことではない。

しばらくすると長男が登校を拒否し、次第に家に引きこもるように。

「嫌やったのは、自分の子供もちゃんと育てられんかったようなもんが、人様からお預かりしとる大事な子供の面倒なんて見とってええもんやろかって」。通子さんは教育者としての限界を感じた。

「俺ら夫婦も、正直大変やったさ。通子に仕事辞めさすわけにいかへんし、息子の心の病とも向き合わないかんのやで。ほんでもさ、どうしたらええかなんてわからんけど、逃げやんとひた向きに生きとったら、なとかなってくもんやさ。なあ」。晴男さんは妻を見つめ、あっけらかんと笑い飛ばした。

平成十七(2005)年、旧飯南郡飯南町は平成の大合併で松阪市に。

そして今年四月の異動で、通子さんはこの園に赴任した。

園では0歳児から六歳児まで、九十九人の園児たちの保育を十四人の先生が受け持つ。

「私らの頃は保母やったけど、今しは保育士やでなぁ。せやでうちにも二十三歳と二十一歳の男性の保育士さんがおるんやさ」。

園児たちが帰った誰もいない運動場。

夕暮れの風がわずかに涼を運ぶ。

「昔と違て今しは、周りが子供たちの環境を変えてもうたったんやで」。

はやこの道三十四年。

されどどこまで行っても終着点などない。

「この年まで子供から学ばせてもうてばっかりやさ」。

身をもって我が子に教えられた心の痛み。

それさえ懐の深さに代え、通子園長は子供たちの目線に膝を折り、真正面から向き合い続ける。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 243」」への15件のフィードバック

  1. おはようございます。
    保母さんのお話ですね。
    保母さん大変な仕事ですね。

  2. 子供の相手をするのは大変なんですよね。他人の子となるとなおさらに。一応短大でて資格とったけど現場の凄まじさに怖じ気付いて小さな託児所のパートで資格を活かしましたよ。

  3. そうそう、以前は保育士さんのことを保母さんって言ってましたね。女の子の憧れの職業のひとつでした。でも私は子どもの頃から子どもが苦手だったので、とてもじゃないけど出来ないわ!と思っていました。
    それでも、幼稚園の先生が家庭訪問にいらしたことは、嬉しくて今でもその時の様子はよく覚えています。

    1. 子どものお相手って、好きじゃなきゃ出来ませんよねぇ。
      ぼくなんて、たった一人きりの娘だけで手いっぱいでした!

  4. わたしは、名古屋市立の幼稚園に通っていたのですが、それが小学校の中にあったんですよ(^o^)

  5. 黄色い帽子のスモック姿。まさしく自分の保育園時代の制服でした!当時は町内のお寺が保育園でした。電動のゴーカートに乗るのが楽しみでした~!あとは泥だんご作り。

    1. ええっ、電動ゴーカートなんて洒落こいた遊具なんて、ぼくの時代にゃあ無かったですなぁ。

  6. もぉ~~
    遥か昔の事で
    薄っすらとした・・って!髪の毛が薄っすら!じゃぁないよぉ!
    そうそう!
    あれは、4歳か5歳位の頃
    シャイな、ハナ垂れもモッチは、外ではトイレが行けない子で・・
    ある日、トイレに行きたくて保育園では行けないので一日中我慢していました。
    ボロアパートまで頑張って帰って行ったんですが・・・
    あと一息なのに家が見えた途端「チビッテ」しまいました。
    後にも先にもチビッタのは、あの時一回限り⤴
    あの時以来「ウン」には見放されたような・・・・!

    1. 分かるぅ~っ!
      ぼくにもそれとよく似た体験がありました、ありましたぁ!

  7. 私が幼稚園の時の大好きな水野先生。
    涼しげな顔立ちで笑顔が素敵で とっても優しくて…。
    将来 先生みたいになりたいと思ったものです。
    そして 我が息子達は障がい児なので 加配保育士さん(子供2,3人に対し1人の保育士さんが付いて下さいます) が常に側にいて みんなと遊べるように配慮して下さいました。私の泣き言にも付き合って下さったり…。
    卒園してからも 進級する度に息子を連れて成長を見てもらっていました。もちろん就職してからも。
    私にとって保育士さんは 恩人であり宝物であり太陽のような素敵な方です。

    1. 幼稚園の時の先生って、子どもたちにとっても初めての先生ですし、親御さんにとっても最初の先生だから、やっぱり記憶に残っているものですよねぇ。
      でもそうやって、成長の過程を先生にお見せするって、素晴らしいものですね。

  8. なごやン殿もおっしゃっておられましたが、私が通った大垣市の興文幼稚園も興文小学校の中にありました。担任して下さったのは若い臼井先生でした。小1は高橋先生、小2は奥田先生、小3は西脇先生、小4は小川先生→加藤先生(私が転校したので)、小5、6は林先生でした。幼稚園から小2までは女性の先生でうれしかったです。私が幼稚園に通ったのが60年以上前とは!光陰矢のごとしです。
    ちなみに、私のかつての同僚は退職後、新潟県上越市で保育園士、通称「園士」をやっています。60歳以上の人が幼稚園のや保育園の花壇の手入れ、修繕および遊び相手を担うとのこと。聞くところによると「園士」に応募するオジイの中には、若い保母さん目当ての不埒者もいて、「いくつになっても」という感じがしました。

    1. なるほど!
      好々爺は仮面で、男はいくつになっても、うら若き保母さん目当てとは、考えたものですねぇ。
      って事は、若いって証拠ですかねぇ。

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