今日の「天職人」は、岐阜県飛騨市古川町の「切り絵師」。(平成十九年七月二十四日毎日新聞掲載)
春を盛りの古川に 晒し姿のやんちゃ連 櫓(やぐら)の上で闇睨み 辻を目掛けて突き進む 町に渦巻く男気と 起し太鼓に付け太鼓 切り絵が描く魂は 古川男やんちゃ節
岐阜県飛騨市古川町の工房布紙木(ふしぎ)。切り絵師の菅沼守さんを訪ねた。

瀬戸川沿いに白壁の土蔵が続く。
真鯉が流れに逆らい水面にたゆたう。
「こんなん元手なんて安いもんや。黒画用紙一枚に、文房具屋で3割引きになった、何処にでもあるカッターナイフ一本あればええんやで」。守さんは、作品の並ぶ店内を見渡した。
守さんは昭和二十二(1947)年、綿細工を手掛けた父の元で四人兄姉の末子として誕生。
中学を出ると名古屋で料理人を目指した。
「料理は好きやったけど、都会の水が合わんと言うか…」。
翌年帰郷し、運送会社の補助乗務員に。
ところが、翌昭和三十九(1964)年トラックごと峠から転落。
一命は取り留めたが全身打撲に。
翌年職を辞し、今度は手に職を付けようと大工見習いを始めた。
しかし二十一歳の年に、脊椎が変形して病状が悪化。
通院生活は今尚続く。
「腰と首の手術はこれまでに十回。二十七歳まで六年間は仕事どころじゃなかったわ」。
しかしその長患いは、菅沼さんに新たな転機を導いた。
病室のベッドがアトリエ代わり。
ペン画・墨絵・版画・油絵と、とにかく手当たり次第に夢中で取り組んだ。
やがて独学ながら木彫りと切り絵の世界へたどり着いた。
とは言え、まだまだ無名の駆け出し作家。趣味人と作家の境を彷徨い続けた。
二十九歳の年には兄が洋食屋を開業。菅沼さんも手伝いながら、作品作りに励んだ。
「『この町に生まれたことが誇れるような、そんな作品を描き続けたい』って。古い町並みや祭り、それに瀬戸川に泳ぐ鯉や山野草。それが故郷そのものだから」。

その想いは、黒画用紙をカッターで切り込む切り絵に託された。
モノクロームの飾りの無い単純な色調。
だからこそ、飾り気の無い力強さと優しさ、そして懐かしさが見る者を魅了する。
だが店の手伝いと作品作りの両立が、やがて身体に障るように。
ついに切り絵作家として生きる覚悟を決めた。
その後、作品が人々の目に留まり本の表紙や町の看板を飾るように。
次第にテレビや雑誌でも取り上げられていった。
それから十五年。
知人の誘いでクラフト展に、生活雑貨のミニチュア木彫りを出品。
そこで創作人形作家の小形寿美子さんと意気投合。
人形を惹き立てる小道具の木彫りを担当することに。
共同作業は作品作りの枠を越え、やがて二人の絆をも紙縒り出した。
そして平成七(1995)年に結婚。
二年後に工房を開き、二階を住居とした。
「不思議な出逢いだから、屋号も布紙木」。菅沼さんはこっそり妻を見つめた。
切り絵は一ヵ月半ほどかけ、納得のいく構図を練り上げることに始まる。
そして黒画用紙に鉛筆で下書き。
白熱灯の明かりに下書きを浮かび上がらせながら、カッター一つでさらに一ヵ月半ほどかけて彫り上げる。
「一つの作品に何十万回ってカッター入れるんやでね」。
祭りの切り絵には、片隅に必ず自分の姿を掘り込む。
「身体が満足やったらなぁ」。
切り絵師は辻を駆ける若衆の掛け声に合わせ、叶わぬ想いを小刀の切っ先に託し一気に彫り上げた。
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職人さんと言うのは
根っから手先が器用で謙虚だと思います。
あたしこそ謙虚の「カタマリ」
だって見た目で分かるように、
頭髪だって・・・!
足の長さだって・・・!
どうよぉ⤴
オカダさんに負けない謙虚さ!だと思うよぉ⤴
それって・・・、ちょっくら捉え方が違ってやしませんか?
今晩は。
・切り絵師のお話ですね。
・切り絵綺麗ですね。 細かい所 神経使いそうですね。
怪我や病が続く中 コツコツと独学…
そして いろんな人との出会い。
きっと神様が見ていてくれたんですよね⁈
でもご本人の力が 何ものにも負けないものだったんでしょうね。
この方が造る素敵な作品を見た誰かが 新たなパワーを頂く事が出来る。
素敵だなぁ〜。
私は このブログを読んで この方の事を知り パワーを頂きました。
な〜んかいいなぁ〜( ◠‿◠ )
と、勝手に思いに浸っている私です(笑)
そうですとも!
必死に生き抜いていれば、神様だってちゃあんと見ていて下さるんですって!
その人を取り巻く境遇は、その人だけに与えられた「使命」であったり、時には「試練」であったにせよ、その人のためにある物でもあるんじゃないでしょうか?