今日の「天職人」は、三重県熊野市の「那智黒碁石商」。(平成十九年七月十日毎日新聞掲載)
碁盤を挟む父と祖父 互いに口も開かずに 短い煙草揉み消して 長考の末碁石打つ 囲碁がそんなにおもろいか 兄と二人で首傾げ 祖父のいぬまに盤を出し 五目並べで大人ぶる
三重県熊野市の岡室碁石、四代目主の岡室洋一さんを訪ねた。

那智の黒石は、三重県熊野市神川町で産し、北上川から熊野川へと流れ下り、太平洋を臨む七里御浜(みはま)へと流れ着く。

「その昔の一説には、伊勢路から熊野三山詣でに向かう人たちが、御浜の砂浜で黒石を拾い那智山の熊野那智大社に奉納したのが、那智黒石の始まりとか」。洋一さんは、工場の片隅で椅子を勧めた。
洋一さんは昭和九(1934)年、山林業を営む家に七人兄妹の六番目として誕生。
地元の高校を卒業すると、慶応大学の工学部へ進学。
「当時は熊野から東京まで、和歌山をぐるっと大阪へ回ってから東京へ。ですから片道二十三時間ほどかかったものです」。
大学を出ると東京の小さな貿易会社に入社した。
二年後、家業の山林業を受け持つ番頭が他界。
「父が急ぎ上京しまして、貿易会社の上司に直談判して会社を辞めさせられ、有無も言わさず連れ帰られました」。
昭和三十五(1960)年に帰省し山林業へ。
二年後、和歌山県出身の敬子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。
一方、碁石製造は、昭和二十六(1951)年に洋一さんの父が神川町に工場を開設し、やがて兄が製造販売会社を設立。
その後の高度経済成長の追い風を受け、昭和四十(1965)年代に入ると、兄は次々に事業を拡大させていった。
「砂利販売の会社や、輸出用スリッパの販売会社に手を染めて、借金も次々に膨らんで。それで困り果てて経営を兄から姉婿へ、そして父へとバトンタッチしたんです」。
洋一さんも山林業の傍ら、碁石製造も手伝い父を支えた。
しかし昭和四十三(1968)年、碁石の製造から撤退する憂き目に。
「宮崎県日向のお倉ケ浜で採れたはまぐりが激減し、最高級と称された国産白石が製造出来なくなって。黒石みたいなもんは、白石ほど値の付く物と違いますから、その後は日向の碁石屋に頼んで黒石の加工もお願いするようになりました。だから今は製品になった碁石を仕入れる卸売りです」。

山林と碁石、洋一さんの二束の草鞋生活は、昭和五十六(1981)年に父が他界する年まで続いた。
そしてその年、父の跡を継ぎ四代目の主に。
那智の黒石は、黒色硅質頁岩(こくしょくけいしつけつがん)で、鑿で割ると板状になるのが特徴。
「昔は四角く切って、四つの角と四つの辺を八角に鑿で斜めに割って鉋掛けして角を落としていました。それから面取り機の登場、そしてコアドリルと呼ぶもので板状の黒石を丸く抜くようになりました」。
碁石の一組は、先手の黒石が百八十一個に、後手の白石が百八十個。
日向のはまぐりから製造する白石は、蝶番(ちょうつがい)の方から順に花・月・雪と呼ばれ、雪が最上級とされる。
肉厚な一つの貝から一~二個しか取れない貴重品。
「日向のはまぐりは、貝で言う年輪のような目切れが真っ直ぐ。最上級の雪印の厚さは十一.三㍉。三年かけて一組出るかどうかで、値段も一千万円の代物です」。
洋一さんは秘蔵の逸品を取り出した。

布石からヨセへの手筋の妙が碁ならば、生を授かりやがて世を去るまでが浮世の妙か。
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おはようございます。
・那智黒碁石生商のお話ですね。
・碁石は、手作りなのですね。
・私は、碁盤,碁石を、買った事が、有りません。囲碁を、した事有りません。
五目並べならやった事があります。
以前、旅先の旅館の部屋の片隅には、碁盤と碁石が置いてあったような。
ありましたねぇ。
埃を被った将棋盤や碁盤が、床の間の片隅に置いてありましたねぇ。
まあ、場末の旅館の話ですが!
碁、将棋
ルール等、全く分かりません!
バカなあたしには相手の手の内を読むなんて到底ムリ⤴
勿論!女性の気持ちを察するなんてムリムリ⤴
若い頃は怖い物知らずで、後先なんて考えないで無茶したもんです。
この歳になると女性の怖さが身に沁みる今日この頃でありますぅ!
触らぬ神に祟りなし!
ウッヒャァ~~⤴
そうですとも、そうですとも。
ただただ頷くだけで、一言たりとて余分な言葉は禁物かも???
あなおとろしや~っ!
わぁ〜!凄〜い!
1枚目の写真の七里美浜 こんな素敵な所があるなんて…。
なんだかドキドキしちゃう。
その場に座り込んで ずっと景色を見てたい。時が経つのも忘れて…。
川から川へと流れ着く ザ・自然の万物って感じ。
碁石に触れた事はないけど なんだか神聖な気持ちで向き合わないと…っていう感じがしてしまいました。
やっぱり伊勢湾の内海とは違って、外洋が臨める場所は、世界の果てと繋がっている気がしてきちゃいますものねぇ。