「天職一芸~あの日のPoem 225」

今日の「天職人」は、岐阜市美園町の「乳母車屋」。(平成十九年三月二十日毎日新聞掲載)

ガタゴト揺れる畦の道 妹乗せて背伸びして       押し手操りバス停へ 父のお迎え乳母車        「籠にしっかり摑まれ」と 父は勢い走り出す      奇声を上げて角曲がりゃ 門前の母仁王立ち

岐阜市美園町、明治後期創業の河村ウバ車店、三代目女将の河村慶子さんを訪ねた。

写真は参考

ショーウィンドー越しに籐製の乳母車が並ぶ。

そう言えば一度も私は、乳母車に乗った記憶が無い。

だから幼心にも羨(うらや)んだものだろう。

昭和三十四(1959)年、伊勢湾台風が東海地区に襲来。

当時名古屋市の南区で暮らしていた両親は、二歳にも満たない私を抱えたまま、家財道具を全て流されながらも命からがら逃げ惑ったそうだ。

だから高価な乳母車などもっての外。

家族三人の日々の暮らしが手一杯であった。

それに小さな小さな共同アパート暮らし。

仮に乳母車があったにせよ、留め置く場所にも窮したはずだ。

「みんな多かれ少なかれ、あんな時代はそんなもんやて。そこにある藤四重の乳母車なんて、それこそ立派な門構えのあるような、農家のお家でしか必要ありませんでしょう」。慶子さんは、頑丈な籐製乳母車を指差した。

写真は参考

慶子さんは昭和十六(1941)年、紙関係を商う小関家の二女として誕生。

短大を出ると直ぐに家業の手伝いに。

それから二年後、嫁入り話しが持ち上がった。

「実家の母の知り合いと、姑が同級生やったもんで」。

当時、鉄鋼関係の会社に務めていた吉夫さんと結ばれた。

「嫁に来た頃は、まだ義父が籐細工の職人をしてまして。私が接客と店番担当」。

しばらくすると、吉夫さんは会社を辞し、慶子さんの実家の仕事に従事することに。

「まるで主人と私が入れ替わったみたい」。

慶子さんは義父と共に店を守った。

藤四重に藤三重。

乳母車の籠の両脇が、四重三重に太く編み上げられ、側面に鶴や宝船等、縁起物の意匠が施された日除けの幌付きという超豪華版。

「昔はこの殿町にも、塗りの紋描屋(もんかきや)があったんやて。孫の初立(ういだ)ちにお里が乳母車用意して、藤四重の両脇に嫁ぎ先の家紋を入れて贈ったもんやわ」。

戦後のベビーブームは、昭和四十(1965)年代前半へと続いた。

「それでも昭和四十五(1970)年頃からは、頑丈な乳母車からだんだんベビカーへ。乳母車では折り畳んで、車に入れられんでねぇ」。

写真は参考

乳母車の籠は籐製。ほとんどがインドネシアからの輸入品だ。

「籐はシャムとかボケという種類に分かれるんやわ。シャムは横に使う弾力性のある硬いもの。台座の周りに使うのがボケ。皮を剥いで太い方から順に、太民(ふとみん)・中民(ちゅうみん)・幼民(ようみん)と呼ぶんやて」。

今では一つの県に一人いるかいないかまでに減ってしまった籐職人が、力を込めて編み上げた籐製乳母車。

ほとんどが注文生産とか。

慶子さんは乳母車が納品されると、籐籠の内側に赤ちゃんが怪我をしないようにと、冬はキルトに夏は木綿のカバーを取り付ける。

明治から昭和の初めまで、一人の乳母が数人の子供の面倒を見ることもしばしばだった。

それに最適なのが籐製の深い籠で、一度に数人の子供を運んだことから「乳母車」とも。

「やはりお子さんには四重の乳母車でしたか?」と問うた。

「残念ながら子宝に恵まれなくって。でも子供が出来ても、新品はおろしませんて。商売もんやで」。

三代目女将はこっそり笑った。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 225」」への16件のフィードバック

  1. 家にありますよ。甥が双子なので守りをするのに楽だからと買ったようです。歩き始めても乗せて義母が散歩に連れて歩いたと言ってます。甥は20歳の大学生になり入る子供が居なくなった乳母車は家庭菜園をする義母の道具入れになりほぼ毎日畑に行ってます。

    1. 畑仕事でお婆ちゃんの杖代わりと、農作業の道具入れに役立ってますねぇ。

  2. 乳母車 まだ時々見ますよ。
    保育園のお散歩で 乳母車に乗った可愛らしい園児たちが手を振ったりして…。
    こちらもほっこりしちゃいます( ◠‿◠ )
    私も幼少期の頃 母が乳母車に私と双子の妹を乗せて散歩に行ってたようです。
    その時の記憶は無いんですが 当時の写真があります。
    今では 双子三つ子ちゃん用のベビーカーがあるけど 当時は大変だったと思います。乗せたり降ろしたりするのが。
    でも 乳母車の中では 立ったり座ったり出来るし安定さはあるかも。
    やっぱり昔ながらの それも一つ一つ丁寧に作られてる物は いつの時代になっても良い!

    1. 昔の乳母車は、とっても頑丈にできていますよねぇ。
      子育ても終わったお婆ちゃんが、あぜ道で乳母車に一杯採れたての野菜を積んで、ゆっくりゆっくり押して歩いていた姿を思い出しました。

  3. こんにちは、skypeの かなちゃんです。
    ご無沙汰ばかりでね、ごめんなさいね。
    今今ね、ブログを、見ました。
    ときどきね、覗かせて貰いますね。

    1. あんまりご無理をなさらないでくださいね。
      ブログなんて、いつだって、もう二度と消されることはありませんから。
      ご都合のよろしい時に覗いて見てください。

      1. 違ってたらご免なさいです。Skypeのカナちゃんはエメラルドグリーンさんのご主人でしたかね❓️

          1. エメラルドさんはお元気ですかね。ファンになるきっかけをくれた人ですよ(笑)

  4. 今月もやってまいりましたよ。1ヶ月振りの、お・ん・な(^_-)

    乳母車って、目線も高くなり夢の乗り物ですよねぇ。ただ、乗ってる本人は幼いから乗った記憶がないかもなのが残念‼
    私の子育て中は、2つのバギーをある時は別々に、ある時は専用のジョイントで繋げて使ってました。懐かしい〜๑´ڡ`๑

    ☆私が聞かなきゃ誰が聞く
    ところでオカダさん、新曲はどんな感じですかぁ?

    1. し、し、新曲は、いいところまで行ってますが、それをもう少し変えようと思って・・・。
      現在、熟成中です!
      気長にお待ちください!

  5. 乳母車と言えば
    ♬しとしとピッチャン♫しとピッチャン♪
    だわねぇ⤴
    ジ~ッと我慢の大五郎!
    まだ!三歳なのに、親思いの出来た子!
    あたしが三歳の頃と同じで、仏様の生まれ変わりかぁ?
    と!云われるほど、出来たハナ垂れ!でした。
    三歳だから、覚えがないけどねぇ!

    1. やっぱり!
      3歳児のまま思考能力がフリーズしちゃったんでしょうかねぇ???

  6. 昔々、60年近く前、大垣市南一色町におばあさんが乳母車にせんべいを積んで僕が住んでいた社宅まで売りにみえました。覚えているのは、炭酸せんべいでしょうか。子供の頃の原風景は、乳母車に乗せてお菓子を売りに見えたおばあさんと、チリンチリンを鳴らして屋台を引いてみたらし団子を売りに見えたおじいさんです。懐かしいです。

    1. 昭和の時代は、老若男女問わず、寸暇を惜しんで家族のために身を粉にして働いたものでしたものね。

  7. 今晩は。
    乳母車屋のお話ですね。
    乳母車色々な種類が有るのですね。
    私は、乳母車を、見ません。
    家に乳母車は、有りません。

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