「天職一芸~あの日のPoem 224」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡市の「模型屋」。(平成十九年三月十三日毎日新聞掲載)

入り江に浮かぶブイ目掛け 模型ボートが波を切る    スピード上げて旋回し ゴール目指してまっしぐら    老いも若きも入り混じり 少年のよな瞳して       操縦桿(そうじゅうかん)を握り締め 船の行方に無我夢中

愛知県蒲郡市のちどりや模型、店主の酒井正敏さんを訪ねた。

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「飛行機はちょっと間違うと、直ぐに逃げてってまうだ。これまでに三回も逃がしたったわ。いっぺんは警察から。まあいっぺんは、遊覧船が拾って来てくれただわ。それに比べりゃあボートは、操縦が効かんようになったって、沈まんときゃあ浮いとるだで」。ラジコン模型に呆けて早や、半世紀と二年。正敏さんは、少年のように澄んだ瞳を輝かせた。

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正敏さんは昭和三(1928)年、海運業を営む家に五人兄弟の長男として誕生。

やがて家業は、海運から石炭販売へ。

尋常高等小学校を上がり、勤労動員の豊川工廠で終戦。

しばらく家業の石炭販売に従事することに。

「昔っから模型が好きで、特にラジコンのスピードボートに夢中だっただぁ」。

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挙句に好きが講じて昭和三十(1955)年、石炭販売の傍ら模型店を開業。

「あんな当時模型屋なんて、豊橋と岡崎に一軒ずつあった程度だわ。だったら自分で店開いたろかって。だもんで模型の品揃えは、み~んな俺の欲しいもんばっかだっわさ」。またしても年老いた少年は、悪戯っ子のような笑顔を向けた。

「だって模型屋なんて、日曜日と平日の晩にしか客は来んだで」。

この年、市内から妻を迎え二男を授かった。

その後昭和三十七(1962)年から、家業の廃業に伴い建築会社に勤務。

「名古屋の会社だったもんで、仕事の合間に抜け出しては、明道町まで行って仕入れてくるだぁ」。

ラジコンのスピードボートは、真鍮(しんちゅう)板をハンダ付けして船体部分を形作り、エンジンを取り付ける。

次に甲板を被せて塗装。

後は無線を取り付ければ完了。

「ラジコンでも飛行機は操縦が難しいだぁ。何でかって?そりゃあ飛行機は上下左右に操らなかん。けど船のレースは、片っ方に舵切っとりゃあええだで」。

昭和四十(1965)年当時、ラジコンヘリ一台で二十万円だったとか。

大阪万博で大忙しだった日本食堂の駅弁が、二百円の時代のことだ。

「それが十万円のヘリじゃあ飛ばんだぁ。中には大会出場に入れ込んでまって、田畑み~んな売り払ったのもおっただぁ」。

全盛期の自慢は、全長一.二㍍、重さ七㎏、ガソリンを燃料とするボート。

平均速度七十~八十㎞のスピードで、三河湾のさざ波を我が物顔で蹴散らしたほど。

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「そんでもまあかんわ。年取るとそんな重たい船、危ないで抱えられん。海に落っこちてまったら一貫の終いだで」。

今ではマニアに、複雑な模型の作り方を手ほどきする毎日。

「まあそれにしても、万引きはしょっちゅうだわ。酷いのは、箱だけ残して中身を根こそぎ持ってってまうだで。今じゃあゲーム感覚みたいなもんらしい。もう歳も歳だし年金暮らしだで、呆け防止に店開けとるだけだわ」。

海を渡る春一番が、ほんの一瞬凪いだ。

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一生物の遊びと出逢い、半世紀以上を惜しげも無く、ラジコン模型に捧げた。

店先に立つ七十八歳の万年少年は、飽きることなく遊びなれた港を静かに見つめ続けた。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 224」」への9件のフィードバック

  1. 子供の頃は模型屋さんもところ処であって高校に上がる頃までプラモデルをよく作ってました。定価の2割引の店を選んで通ったものですが、その店もいつの間にか無くなって私自身もスマホが日常生活に欠かせない楽しみに変わってるこの頃であります。

    1. 手先の器用な方は、プラモデルを器用に仕上げられますから、ぼくのような不器用人間には羨ましい限りです。

  2. いろんな模型を作るのに凝ってる人いますよね。部屋中模型で覆われてるぐらい。
    中には 男のロマンだ!と仰る方も。
    きっと 作ったり眺めてる時間は なんとも言えない程至福のひとときなんでしょうね( ◠‿◠ )
    オカダさんは 模型作りの経験は?

    1. ぼくは根気がなくって、プラモデルをせっかく買って貰っても、直ぐにお手上げになっちゃって、最後はお父ちゃんがセッセセッセと、それなりに楽しみながら組み立ててくれたものでしたぁ!

      1. 大垣市、かつてヤナゲンがあった場所から西へ200m行ったところにイトウ模型がありました。今もあるのでしょうか。マブチモーターという外付けの動力源を付けて、風呂場でボートを走らせてました。ご紹介された大きいラジコンボートやラジコンカーもあったと思います。

        1. 小学校の夏休みの宿題の工作で、何を思ったのか父がぼくの代わりに、耐水性のボール紙だったかを使って、船を作ってくれたことがありました。
          まあ、どっからどー見たって、軍艦にしか見えませんでしたが・・・。
          しかし小さなモーターとスクリューまでついた代物で、2学期に宿題を提出すると、一目でぼくが自分で作った作品じゃないと教師にばれ、コッテリと油を搾られたものです。
          それを持ち帰り、やっぱり風呂場で父と湯船に浮かべ、船を走らせたことを思い出しました。
          ありがとうございます。

  3. プラモデル
    懐かしい!
    忘れもしません、初めて買ったのが
    鉄腕アトムで、身体全体が肌色
    それはいいんですが、アトムって昔風で言うと
    ロケットパンツをはいていて色は黒
    色を塗らないといけませんが
    ラッカー塗料を買うお金がないので
    間抜けな鉄腕アトムでした。

    1. でもぼくなんて、白黒テレビで鉄腕アトムを見ていたので、勝手に色を想像していたものでしたぁ。

  4. 今晩は。
    ・模型屋のお話ですね。
    ・私は、模型(プラモデル)を、作った事が有りません。
    ・玩具屋さん等でプラモデルを、見た事有りますが、自分で買って来た事は無いです。

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