「天職一芸~あの日のPoem 221」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の「庭飾り師」。(平成十九年二月二十日毎日新聞掲載)

寺の山門日も暮れて 屋形提灯火が燈る         ぼんやり家紋浮かび出で 母の在りし日偲ぶ通夜     僧侶の経に甦る 母のいつもの口癖が         「人を嫉(ねた)むな羨(うらや)むな 常に謙虚に世を渡れ」

名古屋市中村区、ツノダ花重中村の角田好一さんを訪ねた。

どこからどう見たところで、世辞にも花屋には見えぬ佇まい。

「だいたい花屋だって一口に言ったって、お祝いもありゃあお弔いもあるんだで。そんなもんどっちが多いかで、店の色合いなんて決まってまうわぁ」。

好一さんは弔事の際、屋形提灯下に、弔問客を迎える庭飾りを手掛ける。

写真は参考

好一さんは昭和八(1933)年に、七人兄弟の末子として誕生。

「若い頃親父は、近衛兵のエリート。俺が生まれた時は退役して、近所の娘相手に生け花を教えとったんだわ。その娘んたあがまんだ生きとりゃあ、まあいっつか百歳ぐらいだわさ」。

華道師範も務めた父は、自宅で芝居を上演させるほどの粋人。

だが好一さんがわずか五歳の年に他界した。

昭和二十四(1949)年、新制中学を卒業。

しかし職に就くわけでもなく、大好きな野球三昧に呆けた。

「百姓しもって、二~三チーム掛け持ちで野球ばっかだて」。

その三ヵ月後。「田植えで『ああ腰が痛ってぇ』って伸びしとったら、一番上の兄貴が向こうから『お前、明日から今池の花屋行け』って言わっせるもんだで」。

翌日から今池の花屋まで、自転車に跨り一時間かけて通い続けた。

「雨降りの日が唯一の休みだわ。癪だけんど、なっかなか雨が降りやがらんだ」。

それでも毎朝、中区大須の花市場に立ち寄っては花を仕入れ、自転車に積み込んだ。

「やっと給料もらって兄貴に見せたら、『多すぎるわ』って言って返しに行ってまうでかんわ。そんなもん無茶だって」。

またもや三ヶ月後。

「いつまでも人の銭儲け手伝うことないで」。

わずか十六歳の秋に、長兄の出資で独立開業。

「兄貴に店番してまって、俺が仕入れから配達まで外回りだあさ」。

十六歳の少年社長が誕生した。

歯に衣着せぬ下町の名古屋弁で、年配者から「コーチャ・コーチヤ」と親しまれ可愛がられた。

それから十年。

やんちゃな少年も、いつしか青年へ。

「母親がそろそろ嫁を貰えって。俺、結納金なんてあれせんで、母親の言うなりだあさ」。

昭和三十四(1959)年、安子さんと結ばれ、二男に恵まれた。

「俺もそんな昔の親父の話なんて、初めて聞いたわぁ」。傍らで二代目を継ぐ、長男の都司之(としゆき)さんも呆れ顔。

その三年後、甥に店を託し再び独立。

公設市場の花屋として小売に専念し、一家を支えた。

「長男が中学三年の年に、やがては花屋継ぐって言うもんだで。このまんまんではかん。なんとかせんとって」。事業拡大を思案。

その行き着いた先が、葬儀の屋形提灯下への庭飾り。

写真は参考

「屋形が風でよう倒れるんだわ。だったら屋形の足を押さえて倒れんようにしてまって、弔問客を迎える庭飾ったりゃあええがやって」。

幅約一.二㍍、奥行き約九十㌢の台で屋形の足を押さえ、背面に矢来垣、外側に光悦垣を配し、杉や黄楊の木と盛り花、蹲(つくばい)、立石で小さな庭を描き出した。

昭和五十三(1978)年、大手葬儀社の屋形下に庭飾りを開始。

「まあ全国で一番最初だったって。それでもかんわ。一ヵ月もしたら他所もみーんな物真似始めてまうで」。

だが自宅飾りから葬儀ホールの時代を迎える昭和の終わりまで、「コーチャの庭飾り」は、愛知県内約五万軒以上の仏を彼岸の岸へと見送り続けた。

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投稿者: okadaminoru

1957年名古屋市生まれ。名古屋在住。 岐阜県飛騨市観光プロモーション大使、しがない物書き、時代遅れのシンガーソングライター。趣味は、冷蔵庫の残り物で編み出す、究極のエコ「残り物クッキング」。 <著書> 「カカポのてがみ(毎日新聞社刊)」「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸2(ゆいぽおと刊)」「東海の天職一芸3(ゆいぽおと刊)」「長良川鉄道ゆるり旅(ゆいぽおと刊)」

「「天職一芸~あの日のPoem 221」」への11件のフィードバック

  1. おはようございます。
    ・庭飾り師のお話ですね。
    ・庭飾り師は、弔事の際、屋形提灯下に、弔問客を迎える庭飾りを手掛けるのですね。知りませんでした。ブログで勉強になりました。専門職ですね。
    ・(写真)花の飾り綺麗ですね。

  2. 昔、京都に居た頃にこういう飾りを見たことがありました。こちらではこういった飾りはなかったので「へえ~」と思いました。

    1. 慶弔事は、時代の変遷の中で、少しずつその時々に変化を遂げてゆくものですよねぇ。
      まっそれも、無駄に長く生きていればこそ、なぁ~んとなく見えてくるものなんでしょうねぇ。

  3. 「天職一芸〜あの日のpoem 221」
    「庭飾り師」
    お名前 店名を聞きそびれていましたけれども読み終えて席を立つとオカダさんの詩の「もしも生まれ代われたなら」を口ずさんでいました。

    1. そうです!
      よく覚えておいででした!
      若き日、ぼくがバイトをしていた花屋さんです。
      倉庫の二階の和室を、バンドの練習用に貸し出していただき、毎日みんなと一緒に練習に明け暮れたものでした。

  4. 十六歳で社長さんとは…
    先見の明があるというか 常にアンテナを張ってらっしゃる方なのか。
    心優しき方なんでしょうね ( ◠‿◠ )
    お花も飾られる場所によって 見られ方も違うし 見る側も感じ方(元気、哀しみ、癒し、喜び) がいろいろだし。
    やっぱり素敵な職業ですね。

  5. 最近、花屋さんも形態が変わって来たんでしょうか?
    なんせ、お葬式など今は家族葬等、身内で葬儀をして・・
    昔ながらの仏花等で飾り付けが減ったでしょうねぇ!
    色んな事が時代と共に変わって・・!
    変わらないのが!
    オカダさんの事をこれからも
    ズ~~ッと応援して行くと言う事でしょうか⤴
    と!久し振りに、心にもない事を言ってみました(笑)

  6. 深夜番組やライブの時 オカダさんの朗読を聴き みんな 涙・ 涙・ 涙 でしたね ♪♪♪
    運命の出会いで結ばれた素敵なご夫婦でしたね (⌒‐⌒)

    美しい心がある方だからこそ、 葬儀の庭飾り師さんとゆうお仕事が出来るんでしょうね (^-^ゞ

    1. 好ちゃの、飾らない名古屋弁のべらんめぇ口調が、今でも耳に残っています。
      本当に第二の父の様でした。

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